今日(12月8日)、ひさしぶりに電車に乗り、東京に行った。この前東京に行ったのは昨年の2月なので,約1年10ヵ月ぶり。電車に乗ったのも約2年ぶり。東京に戸惑いと懐かしさとを感じた。
東京に行ったのは研究会への出席の為(場所は王子)、その後少し友人と二人で居酒屋で飲み(生ビールも久しぶり)、その後一人で丸の内のイルミネーションを見た(色づいた銀杏も綺麗であった)。イルミネーションや銀杏は例年通りだが、人は少なく、帰りの電車も空いていて、ここ(東京)でも新型コロナの影響を感じた。
時間や場所の貴重さや価値は、そのことの属性というよりはそれを使う人や状況によるように思う。具体的に、それを私が端的に感じるのは、参加しているテニス教室でのことである。
私が参加しているテニス教室では、テニスコート2面で、12名前後の受講者がいて、2時間行われる。通常1時間半の集団レッスンが終わると、残りの30分弱はタブルスの練習試合を行うことが多い。1ゲーム先取で、勝てばそのまま残れるが、負けると1回休みになる。試合の時間は少ないので、テニスコートで試合ができることと,プレイできる時間がとても貴重に思える。したがって、集中して必死にプレイすることになる。ところが、そのテニスコートを家族で予約してテニスをするとなると、2時間は長く、また家族だとあまり緊張感もなく、テニスコートとその時間があまり貴重とは思えない。
このようなことは、テニスの時間やコート以外でも、いろいろ見られるように思う。そのことの価値は、それ自体にあるのではなく、それに参加する人や状況によって決まる。そこに希少性が感じられたときに、価値が生じる。
辻秀幸氏より送っていただいた「浜町から風の便り37」(2021.12.1)を掲載する。今回は食べ物の話。辻氏も戦後の食べるものがなかった時代に育った人で、同じような体験をした私も共感をもって読むことができた。食が溢れる今の時代の若い人が読むと、時代を感じることであろう。
合わせて38号も掲載する。こちらは医者の話。医者との関りは私はあまりなく、家族がかかったお医者さんは技術も人柄もいい人が多かったなという印象はある。
39号も掲載する。
昔、家族でWISCONSINのマディソンに1年間住んでいた時、冬は寒く外は零度以下になることも多かった。家の中は暖かいので、冬は家の中で過ごすことが多かったと思われるかもしれないが、実際はそうではなかった。デパートや大型のショッピングモールなどの冬のとりわけクリスマスの飾りつけがどこも綺麗で、それを見によく出かけた。またそれ以上に,各家が外に向けてクリスマスの飾りつけを電飾でしていて、それが雪の白さに映え、街の光景が幻想的であった。その家々の電気の飾りをよく車で見て回った。
日本でも昔一時、冬になると家の外や庭に小さな電飾で飾る家がかなりあった。しかし、今はほとんど見なくなった(少なくても千葉では)。それで、綺麗な電飾(イルミネーション)を見たいと思うと、家の周りの散歩ではなく、そのような場所に出かけるしかない。
今日は家人と「東京ドイツ村にイルミネーションを見に行こう」ということになり、夕方暗くなってから車で出かけた(家から車で1時間弱、千葉県袖ケ浦)。ここに来るのは、5年ぶり、3回目(2015.12.29,2016.1223のブログに記録あり)。家族連れや数人のグループも来ていたが、一番多かったのは若いカップルで、年寄り夫婦は少なかった。広い丘いっぱいに、色とりどりの電飾が施され、幻想の世界で、それなりに楽しめた。