北澤毅・間山広朗編著『囚われのいじめ問題』(岩波書店、2021、9)を、編者の二人からお送りいただき、読んだ。岩波書店刊で323ページの分厚い本なので、なかなか読み始める勇気が出なかったが、読み始めると学術書とは思えないスリリングさがあり、一気に読むことができた。構築主義の立場からの大津いじめ事件の多面的な考察で、いじめ観の転換をはかる画期的な本という印象をもった。昨日(10月10日)朝日新聞や今日(11日)NHKの朝7時のニュースの大津いじめ事件10年目の取り扱いは、相変わらず古い定型的な古いいじめ観のままでがっかり、マスコミ人にも本書を薦めたい。
北澤氏の学識、優れた分析力や明解な文章に感服するが、北澤氏が立教大学で教えられた院生たちが北澤氏の指導や共同研究で力を付けて、ここまで分析や執筆ができるまでになったのかということも、驚きである。本書を読んで教えられたこと印象に残っていることは多々あり、そのいくつかを列挙しておく。
1 新聞報道の地方紙と全国紙の扱いの違い、その世論への影響の仕方の違いの鮮やかな分析(1章、越川洋子)。2 テレビ報道の資料の収集方法の大変さ、テレビ報道の手法の巧妙さの考察に納得(2章、間山、3章 稲葉浩一)。3 事件の社会問題化のメカニズムが鮮やかに説明されている(「自殺練習」という風評や「教育委員会や学校のいじめ隠蔽」という検証なしの前提)(2章、間山)。4 「結論ありきの報告書」-いじめはあったという前提から出発の問題点。「X(被害者)の意味世界」「目撃証言」の多様性(4章、北澤)。 5 当事者経験への接近―遺族(5章、今井聖)、「いじめ加害者になるという経験」(元生徒と保護者)(6章、越川),担任教師(7章、稲葉、山田鋭生)は、同じ事件を違って見ていることの鮮やかな考察、記述に感心。6 「物語としての判決と羅生門的解釈」(8章、間山)、「囚われの意味するところ」(終章、北澤)―世論の主流になっているいじめ論や、教育評論家の尾木直樹氏のいじめ観への根本的な批判を含んでいて興味深い。
いじめに関する論は、被害者の心理的な苦痛で定義するという文部科学省の見解から、いじめはどこでも起こり得るという認識になり、またいじめの加害者や関係者(教師、学校、教育委員会)はそれを隠蔽するものという前提での見方が一般的になっている。しかし、それは偏った見方に過ぎず、「真実」を見逃し、冤罪を生む可能性もある。いじめで子どもを殺された親の気持ちに寄り添うということも、絶対視すると危ない。父親の自殺した子との関係やその叱責の仕方を調べると、父親に子どもの自殺の責任が全くなかったとは言えない(裁判でも、父親の過失相殺を4割認めている)。そのようないじめ論の呪縛、囚われから解放されるべきというのが本書の趣旨と理解して読んだ。以上は、一読しただけの感想なので、理解不足や誤読もあると思う。再読したい。