五輪の当たり前を疑う

今の時代、自明(当たり前)と思われていたことを疑うことが必須の時代のような気がする。その意味で哲学の時代、社会学の時代ともいえる。

オリンピックに関してもその意義に疑いが持たれている「多様性と調和」を掲げているが、実は「勝利至上主義」や「ナショナリズム」なのではないのかと。美談で語られるパラリンピックに関しても、障がい者が健常者と同じように勝利を目指す姿勢は正しいのかどうか。障がいの程度が違うのに1位を争う勝利至上主義や国を代表するナショナリズムが適切なのか。スポーツにはもっと別の基準や楽しみがないのかなど。8月23日の朝日新聞記事を読んで(下記に一部転載)、そのようなことを考えた。

< 結局、多様性と調和はかけ声に終わりました。/ IOCは従来の五輪と同じように、「勝利至上主義」や「ナショナリズム」、「商業主義」という批判をかわすため、多様性をトリックとして使っただけです。/ 五輪の競技性とは、簡単に言うなら「勝者以外たたえない」という「勝利至上主義」です。これは、子どもたちの鬼ごっこのように「遊びで楽しむ競技性」とは全く異なるもので、明らかに「多様性と調和」と矛盾しています。/メダルの色や順位だけで、選手のパフォーマンスやそれまでの努力がはかれるでしょうか。例えば4位でメダルを逃すと、選手が国内で誹謗(ひぼう)中傷を受けるケースもみられます。 / 勝利至上主義がナショナリズムと結びつく時、国民の期待を背負った選手は負けると、「ごめんなさい」と謝る。メディアや国民は選手の順位で一喜一憂しますが、応援は選手に向けてなのか、自国民としての「誇り」に向けてなのか、一度考えるべきです。/パラリンピックは「多様性をトリックに利用する五輪と通じる問題がある/ 日本は世界的に見ても、「五輪神話」が強い、すなわち五輪に熱狂する国と言われています。1964年の成功体験もあるのでしょう。/ 勝利至上主義の五輪に熱狂する根っこには、日本の「技能習得」に力点をおく体育教育もあるかもしれません。明治時代、富国強兵のためにドイツの体育教育をお手本にしました。男性には「強い兵」を、女性には「強い兵の母や妻」を求めた。現在も一定程度この考えは残り、小さい頃の教育から、スポーツを楽しむことより「どれだけ技能を他者より習得できているか」に重きが置かれています。五輪の競技性に似た論理です。/ここ最近、日本で勝利至上主義の流れがさらに強まっている気がします。日本の国力が失われ格差が拡大し、「他国に勝ちたい」という感情に拍車がかかっているのではないでしょうか。/ 以前から、開催国の事情を無視するIOCの姿勢や、都市開発や財政の問題などに対して、反対の声を上げていた人はいました。今回多くの人が自分事になったからこそ、五輪について批判的に見られるようになった。/ スポーツには勝利至上主義だけでなく、自分の体を理解しケアする側面もあります。例えば、ジョギングやキャッチボールなどです。元々、スポーツは「遊び」から出てきたもので、生活の中にあるものです。/ 今回、五輪への経費が大きな問題になりました。五輪に莫大(ばくだい)なお金をかけるなら、公園整備などまちづくりに使ってほしいです。数年に一度しか使わないような建物を開発して環境を破壊するより、自分自身のケアや人々との交流などが中心の生涯スポーツを育む居場所づくりを優先した方がいい。その方が、スポーツの文化も育つのではないでしょうか。/ パラリンピックは、障害者の体にルールや環境づくりを適応させてスポーツを楽しむ「障害者スポーツ」を掲げる一方、勝利至上主義やナショナリズムの問題はあります。多様性をトリックに利用する五輪と通じています。(関西大学文学部・井谷聡子准教授,  五輪の「多様性と調和」はフェイク?)

追記―知人からは、「ナショナリズムは今世界各地でみられる戦争や民族・宗教戦争の形で現れることが多い。オリンピックやパラリンピックの「ナショナリズム」や「勝利至上主義」は、それに比べれば害のない「かわいい」もので、それで人々が楽しみ人々の意識が戦争や紛争に向かうことを回避できるのであれば、その効用は大きい」という意見をもらった。