人と人とのコミュニケーションや親密性はとても難しく、それがあり得ても、持続的に親しくなるのではなく、一瞬の短い瞬間のことかもしれないと、藤原新也の『アメリカ』を読み返して思った。
<アメリカのハイウエイで「追い越したり追い越されたりする間際のすれ違う刹那、もし、私が彼や彼女に視線を送るなら、彼や彼女はきっとそれを感じる。一瞬、交差する視線。1秒か2秒くらいのものだろう。人生の中の最も短い他者との出会いと別れ。/ 運がよければ3日に1度くらいは、アメリカの人生の達人ともいうべき、あのアメリカ的なる博愛主義者が短くて0.5秒、長くて2秒程度の私の車窓の横を通りかかるのだ。/ 私たちがお互いになしうること、すべきことはきわめて単純でやさしいことだということを教えてくれる。つまり車の窓の向こうで心の窓を開くことだ。そんなふうに笑みをたたえ、軽くうなずき合う。/ 命の危険にさらされた高速の中の出会いと別れあることによって、そのうなずき合いの中にお互いの命を思いやるようなちょっとした感情の機微が垣間見えもする。/ 私は彼や彼女の素性を知らない。彼や彼女は私の素性や人生を知らない。しかし、お互いを知らないことが、お互いを知っているとき以上に、軽やかな後腐れのない感情を裸のまま交わし合うとことができるという逆の現象を生むのだ。フリーウエイ上でのこの小さな出来事は、アメリカという国における人間関係を知るヒントになる。>(藤原新也『アメリカ』情報センター出版部、1990年、pp.114-116)
アメリカのように異質な属性(民族、言語、風俗、価値観、思想、生活習慣)を持つ人々がコミュニケーションを取ろうとする時、それはお互いの共通点を見つけようとか親密になろうとかするのではなく(それは不可能なことが多い)、ハイウエイを追い越し追い越される時の一瞬の笑顔の交換のような「属性を超えた人間の根底にある単純で純粋な理念や感情で繋がろうとする楽天的ともいえるほど赤裸々な感情の交流」(p.117)による。
私たちは、親しくなるということは、その人のことさらに深く知り、関係を持続することであると思いがちであるが(友人関係や恋愛関係、結婚など)、それとはまったく違う親しさ,しかも自分とは違う人との深い交流の仕方があることを、この藤原新也の指摘は教えてくれる。我々の日常でも思い当たることがある。「片思い」(2020.5.6)や「推し」(2021.3.6)もこれに当たるであろう。これらは相互的ではなく一方的であるが、持続的でないが深さは有している。