九十九里海岸に行く

家にいるとテレビでオリンピックばかり観てしまう。子ども(孫)はテレビゲーム漬け。自粛の理想形なのだが、体が鈍ってしまう。そこで近くの海に出かけることした。小3の子ども(孫)はテニス教室があるというので、小1の子だけ連れて、妻の運転で家を出る(午前10時過ぎ)。5分行ったところでゲリラ豪雨に襲われ、バケツをひっくり返したような雨が車のフロントガラスに叩きつけられる。そこを抜けてなんとか高速道路(東金道)に入ると、天気は一転して晴天。夏の入道雲が見える。30分ほど高速を走り、有料道路を10分ほど走るとそこはもう九十九里海岸。

夏の日差しがひりひり。九十九里の片貝海岸の海水浴場は今年開設していないようで海の家もなく、広い駐車場に車もまばら(駐車料金も無料)。遠浅の砂浜には人は少なく、外房で波は荒いが、水は綺麗。小さな子どもが波内側で遊びにはもってこい。久しぶりの海を子ども(孫)と楽しんだ。

オリンピック観戦の仕方

私は小さい頃から運動が苦手で、運動(スポーツ)も学校の体育の時間しかやったことがなく(それも苦手で休みたいとばかり思っていた)、大人になってから健康の為にテニスや卓球を少しやる程度で、テレビでもスポーツ観戦はほとんどしない。したがって私は、スポーツを観戦する仕方というのがよくわからない。他の人は、どのような仕方で、スポーツを観戦しているのであろうか。

今テレビを付けるといろいろなチャンネルでオリンピック競技をやっているので、つい観てしまう。でも何故かとても疲れる。その理由を考えると、どちらかの(つまり日本の)個人やチームを応援して観戦するからではないのかとも思う。

普段たまに、野球の試合などをテレビで観ることがあるが、特に応援しているチームがあるわけではないので、中立的な立場で野球というゲームを見て楽しむことができる。野球はピツチャの投げる球、1球ごとに有利不利が変わり、ゲームの楽しさを味わうことができる。

オリンピックとなると、知らない選手ばかりなので、日本人や日本のチームを応援して観ることになるが(別に愛国的になっているわけではない、外国の知っている選手がいれば、そちらを応援してもいい)。メダルを取る為にはどうしたらいいのかとか、選手の気持ちになり、その気持ち同一化し、ハラハラしながら観ることになる。そうすると、ゲームを楽しむというより、勝敗を気にして観ることになり、疲れが残る。スポーツ観戦の熟達者達は、もっと中立的な立場で、そのスポーツや試合を楽しんでいるのではないか。

日本の選手が少しはしゃぎ過ぎのような気もする(観客も、つまりマスコミも)。これは、今回のオリンピックが日本がホームグランドだからなのであろうか。外国の選手の方が淡々と静かであり好感がもてる。日本人の国民性はもう少し奥ゆかしくはなかったのか。

スポーツの勝ち負けを強く意識した見方を皆しているわけではないのかもしれない。勝にしても長年の苦労の末に勝ち得たものという、その苦難を乗り越える過程が注目されているのかもしれないし、勝ちを期待されながらもその期待に応えられずに敗退し落胆する姿に自分の人生を重ねてみて選手と共に涙することで、観客はカタルシスを得ているのかもしれない。

オリンピックの開催に反対しながらオリンピックの競技を楽しむのはおかしい」という意見に対して、「個々の競技に勤しむ若者とオリンピック という巨大組織は別物という観点」を藤原新也は述べている。若者の血のにじむような努力に金銭的報酬はわずかで、その若者の努力から生ずる巨額の利益をIOCや企業やマスコミや政府が得ているわけであるが、無償に近い競技者の若者達の奮闘には、我々は敬意を払うべきなのであろう。そのようなことを藤原は言っている。

ただ、オリンピック開催後、新型コロナの感染者は急増しており(7月28日の全国の感染者9千人越え)、この2つは関連していることは確かである。親が浪費しながら、子どもに倹約するようにいくら言っても効果はないし、親がパチンコに明け暮れていて子どもにゲームを禁止しても効果がない。政府がオリンピックを開催して、国民に自粛を呼びかけても、上記の親子関係のように、効果はないのは明らかである。

開会式の天皇の開会宣言の時、首相やバッハ会長が途中から立ちあがり不敬との批判が出ているが、これは必ずしもそうは言えないのではないか。西洋では偉い人の方が楽な姿勢を取るので、偉い人は椅子に座り下々は立っているが、日本では、目線が大事で、偉い人の目の位置が上で、下々は下に位置するので、偉い人は立ち、下々は床に座ってかしこまり目線を低くするのが礼儀であると、多田道太郎がどこかで書いていた。日本的な慣習で言えば、天皇が話しているとき、座りかしこまり、目線を低くするのは、礼儀に合っているように思う。

人とのコミュニケーション、人との交流について

人と人とのコミュニケーションや親密性はとても難しく、それがあり得ても、持続的に親しくなるのではなく、一瞬の短い瞬間のことかもしれないと、藤原新也の『アメリカ』を読み返して思った。

<アメリカのハイウエイで「追い越したり追い越されたりする間際のすれ違う刹那、もし、私が彼や彼女に視線を送るなら、彼や彼女はきっとそれを感じる。一瞬、交差する視線。1秒か2秒くらいのものだろう。人生の中の最も短い他者との出会いと別れ。/ 運がよければ3日に1度くらいは、アメリカの人生の達人ともいうべき、あのアメリカ的なる博愛主義者が短くて0.5秒、長くて2秒程度の私の車窓の横を通りかかるのだ。/ 私たちがお互いになしうること、すべきことはきわめて単純でやさしいことだということを教えてくれる。つまり車の窓の向こうで心の窓を開くことだ。そんなふうに笑みをたたえ、軽くうなずき合う。/ 命の危険にさらされた高速の中の出会いと別れあることによって、そのうなずき合いの中にお互いの命を思いやるようなちょっとした感情の機微が垣間見えもする。/ 私は彼や彼女の素性を知らない。彼や彼女は私の素性や人生を知らない。しかし、お互いを知らないことが、お互いを知っているとき以上に、軽やかな後腐れのない感情を裸のまま交わし合うとことができるという逆の現象を生むのだ。フリーウエイ上でのこの小さな出来事は、アメリカという国における人間関係を知るヒントになる。>(藤原新也『アメリカ』情報センター出版部、1990年、pp.114-116)

アメリカのように異質な属性(民族、言語、風俗、価値観、思想、生活習慣)を持つ人々がコミュニケーションを取ろうとする時、それはお互いの共通点を見つけようとか親密になろうとかするのではなく(それは不可能なことが多い)、ハイウエイを追い越し追い越される時の一瞬の笑顔の交換のような「属性を超えた人間の根底にある単純で純粋な理念や感情で繋がろうとする楽天的ともいえるほど赤裸々な感情の交流」(p.117)による。

私たちは、親しくなるということは、その人のことさらに深く知り、関係を持続することであると思いがちであるが(友人関係や恋愛関係、結婚など)、それとはまったく違う親しさ,しかも自分とは違う人との深い交流の仕方があることを、この藤原新也の指摘は教えてくれる。我々の日常でも思い当たることがある。「片思い」(2020.5.6)や「推し」(2021.3.6)もこれに当たるであろう。これらは相互的ではなく一方的であるが、持続的でないが深さは有している。

時間の潰し方

今日(7月20日)は、ある事情で、稲毛・検見川近辺で昼間2時間半ほど,一人で時間を潰さなければならず、迷ったあげく、稲毛海浜公園、花の美術観、稲毛の浜、検見川浜を、歩き回り過ごした。

花の美術館は、夏にも関わらずいろいろな花があり楽しめたが、外は夏の日差しが強く、温度は32~3度くらいあり、その暑さの中の、移動は少し過酷であった。木陰はいくつかあり、そこで休んで本を読もうとしたが、蚊に刺され、直ぐに退散した。平日の昼間なので、海岸も含めどこも人は少なく、じりじりとした夏の太陽のみを感じた。

帰りは、久しぶりにバスと電車に乗り、稲毛駅前の店にいくつか寄ったが、日頃過ごしている自宅周辺より若い人が多く、活気があり、日頃いかに高齢者ばかりのところに安住しているものだと思い知った。今は、新型コロナ禍で仕方がないが、たまには、若い人がいる活気あるところの空気を吸う必要があると感じた。

教育の外部化について

学校教師の多忙化が加速化し、教員志願者も減る中で、教師の負担を減らす教育の外部化はどうあるべきなのであろうか。部活の指導員に、外部の専門家を入れることにはあまり異論はなく、かなり進んでいるのだと思う。ただ、部活を学校でやることをやめて、全て外部(地域社会)に移譲すればいいという考え方までは至っていないと思う。学校の部活動は、費用がかからず、全ての児童・生徒が平等に参加できる教育の機会均等に寄与しているという西島央氏の主張(「部活動」『子どもと学校』学文社、2010収録)には、誰しも賛同するのであろう。また、部活を通してこそ、児童・生徒の興味や特技が伸ばせるとか、教師と児童生徒との絆が深まるというメリットがある。

体育の授業の中の、水泳を外部化する学校があることが、ネットに載っていた。水泳指導を学校のプールを使って教師が行うより、民間のスポーツクラブのプールで、インストラクターの指導のもとで行った方が、上達するし、教師の負担は減り、費用もそれほど変わらないという。(下記)

<東京・多摩市の北諏訪小学校。校舎から出てきたのは、2年生の子どもたち86人。これから水泳の授業なのだが、子どもたちは担任の先生と一緒に学校の外へ出ていく。向かった先は、学校から歩いて数分のところにあるビルだった。子どもたちが水泳の授業を受けていたのは、近くのスポーツクラブ。北諏訪小学校では、2021年から水泳の授業を外部委託しているという。86人の子どもたちは9つのグループに分かれ、それぞれのレベルに応じて丁寧な指導を受けていた。スポーツクラブは水泳を教えるプロ。そのプロのノウハウと設備を活用するので、授業の内容が充実しており、子供たちの表情も生き生きとしている。/なぜ今、水泳の授業の外部委託が増えているのか?理由は3つある。1つ目は「熱中症とゲリラ雷雨」。水泳の授業を外部委託をすると、暑さや天候に左右されない屋内のプールを利用できるため、授業時間をしっかり確保できる。2つ目の理由は「プールにかかるお金」。今回、取材した多摩市によると、プールを維持・管理する費用は、水道代を含めて1年間1校あたり約150万円。一方、外部委託をすると費用は約300万円と倍かかる。しかし、プールが老朽化などした場合の改修費や修繕費などを考えると、外部委託をしても採算が取れるという。3つ目の理由は「先生の負担軽減」。/これらの理由から、水泳の授業の外部委託というのが増えている。データによると、1996年度は約2万8000校が小中学校にプールがあったんですが、2018年度は約2万1000校まで減っている。つまり、7000校も全国で学校からプールが消えている>(https://www.msn.com/ja-jp/news/national/

ただ、学校からスポーツクラブへの移動時間(距離)、児童生徒数などで、学校により外部委託の費用はかなり違うのではないか。また、今の子どもは民間のスイミングスクールに通っている率が高く、さらに体育の時間に水泳をやる必要はないと考える親も多いのではないか。水泳は1つの例だが、その他の教科内容も、外部化した方がいいもの、学校で教えなくていいものがあるかもしれない。