教育の実践研究と教育社会学

教育の一番の中核は学校における授業であろう。教育学では、昔から授業研究や実践研究が盛んである。今も各教科の教科教育法では、それぞれの教科の内容に即した授業案を書くことが授業の基本になっていると思う。そして模擬授業という形で、授業の実践の練習をよくしていると思う。各県の教員採用試験も短い時間であるが、模擬授業の実技試験があるところが多い。

私の専攻する教育社会学では、授業の研究をあまりみかけない。これは、教育社会学が戦後に講座や科目が出来て、教育学の中でも新しい分野で、それまでの教育学が研究してこなかった学校の周辺や学校の社会的な側面に自分たちの研究分野を求めたせいであろう。独自の研究分野と研究の方法がないと、新しい学問分野として認知されない。教育社会学は、地域社会と教育、社会階層と教育、経済と教育、青年期と教育といったように、教育とその周辺分野との関係を扱い、学問としての地位を確立してきた。

戦後の日本の教育社会学研究をリードした清水義弘東大教授は、教育経済学(マンパワー・ポリシーも含む)の開拓者者でもあったが、それでも「学校の社会学研究」の重要性を指摘し、教育社会学も学校の外堀である経済や地域社会や階層との関係の研究を埋めたら、最後は教育内容(カリキュラム)という教育の天守閣を落とさなければならないとよく言っていた。ただ私達教え子は、清水教授が、授業研究や教育実践は科学としての教育の研究の対象にはならないといっていると思い、それらの研究をしようとは思わなかったように思う。同じ教育社会学の研究室でも、旧帝大以外、つまり東京教育大(現筑波大学)や広島大学は、高等師範の伝統があり、授業研究や教師研究は盛んであった。

 最近、私は東京教育大出身の友人二人に次のようなメールを送った。                    『今教職のことを少し学ぼうと思い、手元にあっ佐藤学他編『教育変革のへの展望4 学びの専門家としての教師』(岩波書店、2016)の論稿を読んでいます。その中の浅井幸子「教師の教育研究の歴史的位相」を興味深く読みました。この論稿は、授業や教育実践の研究のレビューなので、貴兄らには、周知のことばかりかもしれませんが、私などは読むのを避けてきた分野で、新鮮でした。                                                       恩師の清水義弘先生は、『教育社会学の構造』(東洋館出版、1955)の中で実践記録の非科学性、主観性、呪術的な性格、英雄主義を批判していましたので、私たちはそれを読んでそれに感化され、教育実践や授業研究は、教育の科学的研究とは無縁のものと考え、読むことすらしなかったように思います。私は斎藤喜博の実践全集を10冊近くを持っていたことがありますが、読んだ記憶がありません。               先の浅井氏の論稿には清水の実践記録批判への教育哲学者の勝田守一からの反論も紹介されており、考えさせられる内容でした。無着成恭の生活指導(生活綴り方)から教科内容の研究への変容(「固有名詞を持った子どもの喪失」)や、斎藤喜博の授業研究も、歴史的に位置づけられており、勉強になりました。その中に出てくる成城小学校の授業研究に関しては、昔、筑波大学の門脇厚司さんが熱っぽく書いていたのを思い出し、きっと旧東京教育大の教育社会学研究室ではこの授業研究や実践研究は、社会学的な知見を加味して、継続されて研究が受け継がれているのではないかと想像しました。このことに関していつか教えて下さい。 また千葉敬愛短大学長の明石要一さんから最近の著書『教えられること 教えられないこと』(さくら社、2021)を送っていただき、教育実践に関しての重要なポイントを、分かり易い軽妙な筆使いで書いている文章から学びました。>

ここまで書いてきて、昔の清水先生の論を読み返してみようと思い、「教育学的思惟様式」(『教育社会学の構造』第2章)を再読した。そこでは、教育実践研究を無下に退けているわけではなく、その重要性も指摘しつつ問題点を丁寧に指摘し、教育の科学的研究には何が必要かが書かれていた。また若い時の清水先生は、柔軟な文学的な香りのするいい文章を書いていて感心した(2章を転載する。印刷が不鮮明、2枚目が重複しているが、ご容赦。)

大学院で同期の友人から下記のコメントをもらった。一部転載させていただく。 <教育社会学会編の「教師・学校・社会」(昭和33年10月20日刊)のなかで、清水義弘先生は「教育社会学論」(P100~P114)について論じています。これは学会創立10周年記念して刊行されたもので、「Ⅰ日本の教師」高野圭一、河野重男、稲垣忠彦、石戸谷哲夫、小森健吉、「Ⅱ日本教育社会学の現状と課題)~その一」清水義弘、馬場四郎、日比行一、青井和夫、浜田陽太郎、古屋野正吾、【回想】「学会発足前後のこと」赤堀孝、「日本教育社会学十年の歩み」牧野巽、「Ⅲ論稿」新堀通也、堀尾輝久、(戦後国内教育社会学文献目録) 蒼々たるメンバーとはいえ、学会10周年とはいえ当時は多様な会員が存在したことが解ります。そのなかで清水は、「以上の反省から、教育社会学が教育実践を直接に対象とすることは、けっして警戒すべきことではなく、むしろ教育社会学を社会学から引き上げ、文字どおり教育社会学たらしめることになるであろう」(P113の上)と述べている。さらに、「また、実践理論の確立が教育社会学の中核的課題であるというのは、もともと、教育社会学が理論構成を主とする社会学と、すぐれて実践的な教育学とを転結する科学として生まれているところにも求めることが出来るであろう」としている。これは清水著「教育社会学の構造」や「教育社会学の課題」で述べられている。そして「なお、最後に一言しておきたいことは、教育社会学はけっしてまちがった道を歩いてきたのではないということである」と指摘している。私は教員養成大学出身ですので、貴兄が敬愛大学での教育実践のなかから得られた成果はとても貴重だと思います。私自身も教育学と社会学の狭間で揺れ動いてきたことも事実です。規範意識は重要ですが、清水先生の第一巻のタイトルが「教育社会学」であり「政策科学への道」がサブタイトルであることがとても重要に思えるのです。>

河津桜について

今の季節、近くの公園や川べりに、桃色(ピンク)の花を付けた樹をよく見かける。まだ蕾(つぼみ)のものもある。2週間ほど前訪れた南房総の佐久間ダムでもいくつか見かけた。河津桜である。昨日訪れた八千代市の花見川上流の川べりにも1キロに渡り河津桜の並木道があった。ここはまだ蕾状態で、見頃はこれからのようだ。桜はソメイヨシノや八重桜だけと思っていたが、早咲きの河津桜があり、それは伊豆だけでなく、千葉の各所にもあることを最近知った。(ネットで調べる)

<カワヅザクラー(河津桜)は、バラ科サクラ属のサクラ。日本固有種のオオシマザクラ  とカンヒザクラの自然交雑から生まれた日本原産の栽培品種のサクラ。樹高は亜高木、樹形は傘状。一重咲きで4cmから5cmの大輪の花を咲かせ、花弁の色は紫紅。オオシマザクラ由来の大輪の花と、カンヒザクラ由来の紫紅の花弁の色と早咲きが大きな特徴である。東京の花期は通常は2月から3月上旬で稀に早い年には12月に開花することもある。原木のある静岡県河津町での花期は2月頃で花期が1ヶ月と長い。1955年に静岡県賀茂郡河津町田中の飯田勝美が河津川沿いの雑草の中で1mほどの原木を偶然発見し、庭先に植えたことが由来である。>(https://ja.wikipedia.org/wiki

コロナが大学に問いかけたこと

内田樹氏が、コロナで変わった大学の様子をブログに短い文章で書いている。その内容に共感するする部分があり、一部を転載する。今年度、大学の中退者や休学者が減った理由が書かれているように思う。

<よい予兆はいくつかの制度が「弱者ベース」で設計され直され始めたということである。きっかけは大学の授業が2020年の4月からオンライン化されたことだった。 ほとんどの大学はオンライン授業の経験がなかった。だから、準備はたいへんだったと思う。少なからぬ教員は「大学の授業は対面で行うべきものだ。『師の謦咳に接する』ことなしに教育が成り立つのか」という深い疑念を抱いていた。それでも、なんとか4月から授業が手探りで始まった。そして二月ほど経ったところで教員たちはある変化に気がついた。それは脱落する学生が少ないということである。これまで大学というのは「学生が主体的に学ぶ場」だとされてきた。だから、積極的に学ぶ意志を持たない学生に、教員側が「手を差し伸べる」ということはしなかった。ところがオンラインになると、欠席者に配布物を送ったり、来週までの課題を伝えることができるようになった。教員から(オンラインであれ)固有名で名前を呼びかけられたことで、ささやかながら社会的承認を得て、前期が終わった時点で、定期試験を受けたり、課題を提出したりした学生の数は前年度を上回ることにな(った)。これまで私たち大学教員がどれほど学生たちに対して「無慈悲」に接してきたのかを思い知ることになった。ある程度基礎学力があり、授業にそれなりに興味もありながら、いま一つ意欲が足りないという学生はわずかなきっかけで授業に来なくなるのだが、そういう学生を授業に「呼び戻す」ための装置を大学は持っていなかった。大学は「学習強者ベース」で制度設計されていた。「学習強者」は自分の興味に従って科目を選び、研究室を訪ねて質問をし、大学が無償で提供しているさまざまな教育資源を活用できる。もちろん、それが高等教育ということなのだ。だが、自信のなさやわずかな気後れで、「そういうこと」がどうしてもできない「学習弱者」である学生もいる。そして、その方が多数派なのである。学校には「学習弱者」のための学習トラックも必要だ。そのことを感染症に強制されたオンライン授業で多くの大学教員が気づいた。「学習弱者」を「呼び戻す」仕組みを標準装備することに多くの大学はこれから取り組むだろう。何が一番たいせつなのか。それはそこにいるだけで、社会から認知され、必要とされているということを実感できるという経験ではないのか。自分はこの集団のフルメンバーであるという自尊感情を抱けるということではないのか。コロナを奇貨として学校教育についてもう一度根源的に考え直すことを私たちは求められていると思う。>(http://blog.tatsuru.com/2021/02/21_0910.html

あすみが丘、昭和の森公園

今からもう35年くらい前になるが、住んでいた稲毛海岸の団地が手狭になり、少し広い一戸建てを探したことがある。バブルの絶頂期で土地や住宅の値段は高騰しており、私達が買えるとすると、都心から片道2時間くらいの場所しか無理であった。当時外房線の土気(とけ)駅(千葉から電車で20分くらい、しかし本数は当時1時間に2~3本の運転)からバスで10分程度のところに、東急不動産が「あすみが丘」という一大住宅地(コミュニティ)を開発していた。そこの住宅の抽選を申し込んだことがある。倍率が30~100倍近くあり、抽選に外れ、一戸建ての家に住む「夢」はかなわなかった。申し込んだ家は3千万円くらいだったと思う。「あすみが丘」には東急が一般向けの住宅の方他に「ワンハンドレッドヒルズ」という名称の5億~15億円するプール付きの豪邸を60個近くを建て,「チバリーヒルズ」と揶揄され話題になったところがある。チバリーヒルズの今!! – ローリスク不動産投資 (fudousantousinavi.com)。今は中古で8000万円~2億円くらいで売り出されている。

昨日(2月23日)、あすみが丘に隣接する「昭和の森公園」https://www.showanomori.jp/)に、梅を見に訪れた(家から車で40分程度)。とても広い公園で、人も少なく、いろいろな梅が満開で堪能できた。そのついでに、住むことが叶わなかった「あすみが丘」の住宅地を少し車で回り(なかなか東急の素敵な家が多かった)、その一角にある有名な「ホキ美術館」に立ち寄った。

「ホキ美術館」を訪れるのは初めてで、その建物の斬新さと、写実絵画という分野のあることもはじめて知った。写実絵画は写真のようであるが、瞬時に撮れる写真とは違い、1年近くかけて描くという絵画で、独特の世界がそこにあることを知った。

(ホキ美術館https://www.youtube.com/watch?v=mSkXMstqChc

子どものスポーツでも対話的学び

新学習指導要領の「主体的・対話的で深い学び」に関して、最近思ったことを記録にとどめたい。「主体的」に関しては、社会学者はこれも後天的なもの思っているかもしれないが、教育学者は先天的なものと考えているように思う。同じ幼いきょうだいでも、好みや性格が違うのを見ていると、ひとり一人に個性がある(つまり主体的なのは)先天的な要素が強いように思う。それを教師も見極めて子ども個々に応じた指導をしなければならない(「個別最適化」をAIに任せることはできないであろう)。

「対話的」に関しては、教師との対話もあるが、主となるのは子ども同士の対話であろう。それは主体同士のぶつかり合いで喧嘩になることもあるかもしれないが、強いものに同調したり、その場の空気を読むことよりは、異論(主体)をぶつけ合いことの大切さを指導したい。音楽でいえば、同じ音のユニゾンより、合唱のハーモニーや、違う楽器の音が奏でる音楽の素晴らしさを伝えたい。

「深い学び」は、異質なもの共存から生まれる結果と、それを各自が自分の中に取り込むみ自己変容(成長)をはかることであろう。

これが、個人の学習だけでなく、子どもたちのスポーツの世界でもあることが、2月20日の朝日新聞記事に掲載されていた。子どもたちのサッカーチームでも、大人が指示するのではなく、子どもたちに話し合い(対話)でいろいろなことを決めさせる。結果も付いてきて、子どもたちの主体性と自立心が育つという。

<(子どもとスポーツ)やってみる、まず自分たちで サッカーのサイレントリーグ、大人は口出し禁止(ハーフタイムに話し合う碧南FCの選手たち。コーチの姿はない) パッと見は通常の子どものサッカーの試合だ。だが、しばらく見ていれば、あることを感じ取る。そう、あの小うるさく、時に威圧的な大人の声が一切ないことに。ベンチにコーチの姿はない。スポーツの場で、私たち大人は子どもの主体性を大事にしてこなかったのではないか。そんなことを考えさせられる大会を取材した。愛知県岡崎市で1月16、17日に開かれた小学4年生の大会。県内の地域クラブ10チームが参加した。名付けて、サイレントリーグ。指導者や保護者は一切、口出ししない。子どもの主体性を大事にするため、約束がある。■メンバー決定、交代、戦術、ウォーミングアップなど試合に関わる全てのことを子どもたちに委ねる ■試合の間、子どもがいるエリアに大人は入れない ■行き帰りの道中も、大人は「言いたい一言」を我慢する 各試合で登録メンバー全員が出るルール。2日間で、主催側が決めた相手と5試合ずつを戦う形式だ。さて、本当に子どもたちだけでできるのか。初参加クラブの一つ、碧南市の碧南FCに密着した。(以下略)>(朝日新聞より一部転載)