時代劇の不思議 

今のNHKの大河ドラマ「麒麟がくる」もそうだが、時代劇を見ていていつも不思議に思うことがある。それは,上に立つもの(殿さま等)の生きざまが描かれ、武士の鏡のような潔い生き方で、負け戦とわかっていても筋を通すために戦い敗れ自害するあるいは討ち死にする姿がよく描かれる。そのドラマを観て、人々はその殿様の自分の信念に殉ずる真摯な生き方に称賛を送る。

私が不思議に思うのは、家臣たちとりわけ足軽で上の命令通り動かざる者たちが、殿様の意向に添い、無意味に戦い、次々と殺されていくことである。彼らにも意志や心はあるはずなのに、それは描かれず兵の数としかカウントされない。主君のこだわり(くだらない意地のことが多い)の為に、なぜ多くの人(兵)が殺されなければならないのかと思う。戦うのであれば、大将同士が、素手でも武器を持ってでもいいから戦い、それで決着を付ければいいと思う。(そのような西部劇はあったと思う。またウォーター・ヒル監督の『ストリート・オブ・ファイヤー』(Streets of Fire)(1984)もボス同士の一騎打ちで戦い、一人も死なない)

これは、近代以降の戦争に関してもいえて、多くの国民が、国家元首の意地の為に、殺し合いをする必要はないと思う。もちろん近代の戦争は、国の利害が絡んでいるのであろうが、その勝ち負けを決めるのに、総国民が戦う必要はないのではないか。元首同士が、拳銃の決闘でも、素手の殴り合いをすればいい。代役をたててもいい。何故そうしないのか、不思議である。その方が、よほど双方に損害は少ない。

何故、我々はトップに立つものが、多くの家臣や国民(住民)をその意向に関わらず戦わせ、死に追いやり、自分の信念や意地に殉ずるのを称賛するのであろうか。自分がただ殺されるだけの足軽や国民(住民)だと思わないのであろうか。時代劇の中でも、忠臣蔵は、主君の為に戦う家臣の苦しみや葛藤が描かれているのでまだましである。近代以降の戦争映画では、「プラトーン」が、将軍たちではなく、戦う兵士の苦悩を描いたという点で評価できると思う。

特別講義 佐藤邦政氏(敬愛大学准教授) ルソーの「子どもの発見」

私の敬愛大学後期の「教育課程論」は、私の講義ノートと授業資料を大学のサイトから学生に送付し、オンデマンドで行っている。送付するのは文字情報だけなので、学生にも飽きが来ているのではないとか心配している。そこで知り合いの若い研究者に動画で講義をしてもらい、その映像を配信することを2度ほどした。

その1回は、敬愛大学国際学部国際学科准教授の佐藤邦政氏で、教育哲学と英語教育が専門の新進の研究者である。最近『善い学びとは何か―<問ほぐし>と<知の正義>の教育哲学』(新曜社、2019)という著書も出されている。佐藤氏に「ルソーの『子どもの発見』」というテーマで、1時間弱の講義をしてもらい、その動画を配信し、私の方から3つの課題を出し、学生に解答(コメント)を書いてもった。受講生は70名(経済学部19名、国際学部51名、学年2年~4年)である。佐藤氏の講義から、学生は、ルソーの生きた時代(フランス革命前後)、ルソーの教育思想に関して深く学び、これからの教育や子どもへの対処の方法などいろいろ考えたことが、送られてきた解答(コメント)から伺われる。 

新型コロナ禍での教育のあり方について

新型コロナ禍での教育のあり方に関しては、1月10日に開催される「学校社会学研究会」でも、いろいろ議論されることであろう。私も「遠隔教育と大学」という最後のセッションで10分ほど話をしなくてはならない。ちょうど今、敬愛大学のオンデマンドの授業でも、資料を提供して、学生に新型コロナ下の教育のあり方に関して、意見を求めているところである。

新型コロナ禍の教育に関しては、昨年私も短い文章を「内外教育」に書いた。それは、新型コロナ禍で教育が変わってしまったことを嘆くのではなく、新しい教育方法も模索した方がいいという趣旨で書いた。

<いま新型コロナウイルスの世界的な蔓延で、私たちの日常生活は一変し、重い病気にかかったような状態にある。そのような時こそ、何が大切なのか何が重要なのかを考えたい。><自明であった学校教育の意義も問われている。効率優先の一斉授業、興味のわかない教科の学習、生きる力にならない知識、退屈な学校行事、無意味な校則、教師のストレス解消のお説教など、なくなってみるとスッキリする。これまでの学校教育のあり方の見直しも必要であろう。><休校中の家庭での自由な学習、親子関係の親密化、ウエブ学習、地域の遊び集団など、これまでの学校教育とは違った自由な学習や生活に、子どもたちは本来の興味と活動に目覚めたということもあるだろう。不登校やホームスクーリングも見直されていい><精神科医の斎藤環は、人に会うことの暴力性を指摘している。学校という場に通い、そこで多くの人に会い苦痛に耐えるのは当たり前という考えを再吟味する必要がある。><遠隔教育で個別学習を経験した子どもは、周囲に気を遣うことなく学びやすいと感じた人もいたであろう。大学の遠隔教育でも学生の私語やスマホへの逸脱がなく、課題への集中力が増す。実際の密な対話がなくても、逆にリモートの対話の方が、主体的で深い対話ができる場合がある。>

大学教育に関しては、私は遠隔で「講義メモ」と「授業資料」を発信し、課題を出し、その解答に私は毎回コメントを返信するという授業を行った。このようにオンデマンドの方式の授業しかしていないが、学生から送られてくる毎回の解答(コメント)を見る限り、以前の私の教室での授業より質の高い解答が多く、遠隔教育のよさを感じている。その授業の中で2度ほど、知り合いの若い大学教員に特別ゲストで、動画の授業を配信してもらった。。その二人の動画の授業はなかなか素晴らしく、学生からは絶賛のコメントが寄せられている。(人には向き不向きがあり、私が動画配信をしたらこのような称賛は得られなかったと思う。)。

学生に送ったた最近の新聞や内外教育の記事には、新型コロナ禍の教育に関して、示唆的な内容のことが書かれている(添付参照)。法政大学の田中優子総長の「コロナ後の大学」に関する基調講演は、下記にエッセンスを抜き出したように、大学の本質を的確に言い当てている。倉沢昭氏の「学校のデジタル化の課題」は、今の学校がデジタル化でやるべきことを具体的に提起している。馬居政幸氏は伝統的な教室での授業とデジタルの遠隔教育の根本的な違いを指摘していて、いろいろなことを考えさせられる。

<法政大学の学生アンケート結果によると、評判が高いオンライン授業は「リアルタイム配信、オンデマンド型授業、資料・動画配信などを使い分けてくれた(もの)」「学生同士が意見交換できる交流時間や掲示板があった」「教員の回答やフィードバックがあった」というものでした。つまりコミュニケーション濃度を上げた授業が肯定的に評価されています。>< そこから考えると、大学の教室とは何だったのでしょうか。必要なのが相互のコミュニケーション(です)><学生がオンライン授業に最もメリットを感じたのも、「自分の時間配分で学習できた」ということでした。大学の時間は学ぶ側の基準に移っていく必要があります。>(田中優子、朝日新聞、12月22日 朝刊より一部転載 )

新型コロナ禍の日常

毎年いただく年賀状の中に、ひとこと言葉が添えられているものが多い。今年多いのは、「新型コロナ禍が早く去り、平穏な日々が戻ってきますように」というものである。それが皆の一番願うことであろう。それと合わせて、新型コロナ感染拡大のもとで、このように頑張っていますと、具体的な活動を添え書きしてくれた人も多い。

昨日(1月5日)の朝日新聞の朝刊を見ると、「耕論」(「画面越し」に見えたのは)に阿川佐和子、金原ひとみの両氏が、新型コロナ禍のもとで人に会えないことに関して示唆的なことを言っていた。転載しておく。

<対談の仕事にも、昨年はオンラインが採り入れられました。「逆によくなった」とまでは思わないけれど、コロナのおかげで、今までなら諦めていた遠方の人とも話せた。「あうんの呼吸」は難しいし、生で会った方がよかった人もいます。でも、実際に会うことが「唯一の条件」ではない。他にも手立てがあるということ、とりあえず挑戦してみようということを、このコロナ禍で学んだ気がします。>(阿川佐和子)

<そもそも、人と関わるとはどういうことなのか、コロナ禍にこそ考えるべき問いなのではないかと思います。 密に会えなくなった恋人や家族に対して、似たような感覚を抱いた人は、少なからずいたのではないでしょうか。悪い面ばかりではない、と私は思っています。「会えなければ意味がない」というのであれば、会うことで自分は何を得ていたのだろうか。そんなふだんは気付かないことを考える新しい思考回路が生まれたと思います。より親密になった人もいれば、別れた人もいる。コロナは「この恋愛は本当に大切なものなのか」を問うリトマス試験紙のような役割も果たしているように思います。>(金原ひとみ)