教え子が有名になるということ

テレビに、有名人の昔の担任の教師が呼ばれたりすることがある。それを見ると、何か呼ばれた教師が哀れに思えて仕方がない。何故なのかよくわからない。教え子が有名になったのだから、それを教えた教師はそれ以上の存在で胸を張ればいいともいえる。でもそうは思えない。有名人にあやかろうという「さもしさ」を感じてしまうからかもしれない。

教え子が自分の得意分野とは違うところで有名になった場合は、自分は、(教師なのに)彼(彼女の)才能を見抜けかったとか才能の開花に何の貢献もできなかったという後悔の念がある。新聞でかってのゼミ生の名前を見て、このようなことを感じた。

久しぶりの御宿海岸

稲毛海岸は自分の生まれ育ち、子育てをした場所であり一番懐かしさを感じる場所であるが、東京湾内にあり水はあまり綺麗とは言えない。それで時々、外房の太平洋の綺麗な砂浜や海水を見たくなる。

久しぶりに訪れた外房の御宿海岸は、相変わらず広い砂浜と綺麗な水は健在であった。皇帝ダリアの植わっているところも近くにあり、その品のある花を観賞した。

日本語、日本学の日中シンポジウムを聞く

オンライン(ズーム)で日本語と日本学に関するシンポジウムが上海の同济大学開かれるとい案内を同大学に勤める友人よりもらい、少し覗かせてもらった。日本語や日本研究が中国で盛んに行われ、日中の研究者や教師が集い、日本語と中国語で研究発表や交流が盛んに行われているということはとても素晴らしいことだと思う。私も8年前、同済大学で開催された学会に加藤幸次先生と一緒に参加し、日本の大学と学生の現状に関して発表したことがある(2012年6月11日、12日のブログにその様子を記載した)。

今回は、都留文科大学の田中実・名誉教授の「第三項理論と日本近代文学研究–村上春樹の『猫を棄てる』から『一人称単数』まで」と、日本語学の部会の早稻田大学の戸田貴子教授の「日本語教育と日本学研究:オンライン化がもたらす新たな学びのかたち」の発表との2つの発表を聞かせてもらった。

前者の村上春樹が中国でどのように読まれているのかという内容には興味があった。ただ、同時開催の為、オンライン化の学びの方に惹かれ、後者の方を集中的に聞かせてもらった。山田教授の報告では、早稲田大学で、留学生に日本語を教えるのに、オンラインと対面授業をどのように組み合わせ、ブレンドするかが大事と言う話であった。オンラインも既存の大学外の各種のリソースを(ムンク等)も使い、反転学習も使い、対面授業では討論や発表を中心に行い、いかにさまざまな方法を駆使するかが勝負どころということを理解した。戸田教授の発表は、外国人の学生に対する日本語教育の方法に関するものであるが、その他の授業にも使えるものであり、万国共通のもので、教えられることが多かった。具体的な方法に関しては、山田教授の研究室のHPに詳しい(http://www.gsjal.jp/toda/)。