人の人間性に関して、どのような描写がありうるのであろうか。昨日(22日)読んだ文章から、2つ抜き出しておきたい。
一つは、江藤淳に関する古山高麗雄の文章(『現代の文学27』講談社、昭和47年)
「実際に会った江藤氏は,高名ではあったが、文士風ではなかった。江藤氏は、スタイルやポーズなどにはまったく無縁な、直截的でナチュラルな感じの人であった」「江藤氏は、素通りできない発言者であった。江藤氏の発言はいつも、人間の生き方に関わるところまで及んでいるので、読者は立ち止まらないわけにはいかなくなる」「 「江藤氏の洗練された視界の広い国際感覚と,『自分を育てた日本の文化遺産の一切とともに』自然な自分を引き受ける決意とのあいだに、背反がな(い)」 「江藤氏におけるような、論理的に明晰で、平明な用語で斬新にそして確実に把握し表現するレトリックが、非論理的で混沌とした日本的情感と混和し、しかも全体的には誠実であり自然なかたちに落ち着いて例を私は見たことがない」(p425-433)
もう一つは、大矢博子 書評『チーム・オベリベリ』(乃南アサ著)
渡辺カネは横浜の女学校を卒業した、当時の最先端の女性である。それが、夫に従って入植し、粗末な小屋に暮らし、子を産み、畑を耕し、豚を育て、アイヌ民族と交流し、開拓団の子どもに勉強を教える。予想もしていなかった環境に身を置くことになったのである。 開拓の具体的な描写も圧巻だが、新たな環境にどう向き合ったかが読みどころだ。カネは幻滅や諦めを体験しつつも、妻として母として、武士の娘として、アイヌ民族の隣人として、自分の為(な)すべきことを見つけていく。 彼女を支えたのは教育と信仰だ。自分の芯になるものを持っている人間の、何と強いことだろう。 カネの印象的な言葉がある。「私たちの代が、耐えて、耐えて、この土地の捨て石になるつもりでやっていかなければ、この土地は、そう容易(たやす)くは私たちを受け入れてはくれない」(朝日新聞、8月22日朝刊)
江藤は誠実で、ナチュラル(自然)、カネは、育ちと教育と信仰から、自分の役割を大事にし、強い信念(芯)を持ち行動する人という描写がみられている。さらに多くの記載を検討することによって、好ましいとされる人間性が明らかになるであろう。