「相手を思いやる」や「相手の立場に立って考える」ということは、道徳教育の項目にもあがっているし、多文化教育の「転換アプローチ」(相手の立場から考える)もそうであり、重要なことである。しかし、実際は行き違いもあり、次元の違いもあり難しい。
こちらが相手のことを思いやって言ったり行動したりしても、その言動が理解されず、恨まれる場合がある。さらにややこしくなるのは、相手もこちらを思いやっている場合である。その思いやりが自分を傷つける場合がある。それも、お互いを思うゆえにである。
親がゲームばかりしている子どもを叱り、ゲームを辞めさせるのは、ゲームをしたいという子どもの意向を禁止する、思いやりのない行動ではなく、子どもの将来を考えた思いやり行動である。自分に片思いの相手に冷たくするのは、相手に自分に対する未練を早く断ち切ってふさわしい人を探してほしい、という思いやり行動である。これらの行動は、今理解されなくても、いずれわかってもらえるので問題はない。ここで問題にしているのは、これとは違う。。
今評判の韓国ドラマ「愛の不時着」の15話で、恋人同士がお互いに、警察で自分が罪を被り、相手が罪を免れるような供述をする場面がある。二人はそれぞれ自分を犠牲にしての相手の幸せを願って、このような供述をする。ところが、相手の為を思って自分がした供述(罪は自分の側だけにある)は、自分の幸せを一番願っている相手の願望を真っ向から否定するものである。お互いに相手の為を思った供述が、相手を深く愛する二人故に、お互いの思いとは逆の結果を招く(浅いレベルでは、相手は罪を免れ幸福になるかもしれないが、自分の幸福を何よりも願う相手の願望を否定する)。それでお互いに、死ぬほど傷つく場面がある。(囚人のジレンマの逆?)
シエル・シルヴァスタイン著・村上春樹訳『おおきな木』(あすなろ書房、2010)では、リンゴの木は少年が好きで。その願いをかなえることに生きがいを感じている。少年に、自身(リンゴ)の実、枝、幹を提供し、自分は切り株になっても後悔はしない。少年の為になることが至上の願望だからである。一方少年は、そのリンゴの願望を当たり前のことと考え、リンゴの木が自分に幹まで提供し切り株になっても、それがリンゴの願望をかなえることなので、悪いことをしたという意識はない(読者もそう読む)。
この「愛の不時着」と「大きな木」の意識の違いは何なのであろう。前者は恋人同士であり、後者は母―子関係だからであろうか。前者は対等であり、後者は母親の子どもへの無償の愛が前提になっているからであろうか。(ドラマ「屋根裏のプリンス」の場合、片思いの側の相手への無償の愛の要素もあり、後者に近い面もある。)このように、ものごとには、深さもあり、相手の気持ちもあり、一筋縄ではいかない。