敬愛の教育原論第8回・9回は学校におけるいじめ問題を扱った。資料としては、①文部科学省の白書のいじめの箇所(定義)、②森田洋司の「いじめの4層構造」、③大河内君のいじめ自殺とその遺書などである。将来教員を目指すものが多い敬愛大学の教育こども学科の学生は、いじめやいじめられの経験は少ないものの、いじめ事件、とりわけ大河内君などの酷いいじめ事件などを知ると心を痛め、教師のいじめ防止への役割の重要性を再認識する。
<私は今までいじめたりいじめられたり、また観衆や傍観者になったこともない。それは小学校の時に道徳やピアサポートの授業で「いじめはいけないものだ」と強く言い聞かされていたからである。いじめに直面した経験がないため、大河内君の遺書や、それに対する学校側の対応を読み、こんなにも酷いいじめが中学生ないしは小学生にも起こっていることに驚き、それと同時に怒りを覚えた。優しい家族がいながらも相談できないほど怯えて生活していたことや、遺書の中で被害者である大河内君が何度も謝っていることなど、読んでいて胸が痛くなった。いじめていた側はお金を巻き上げることや、川で溺れさせるなど、もはやいじめの枠では収まらない犯罪行為をしている。それを止められる人は絶対にいたはずである。それが森田洋司さんの「いじめの四層構造論」にあるような観衆と傍観者だと思う。いじめを止めたら自分が標的になってしまうのではないかという恐怖心があるとよく聞くが、そんな考え方を覆せるのが教育だと思う。私は小学校で「いじめに関わる人は加害者・被害者・盛り上げる人・見て見ぬふりをする人がいる」と習い、いじめに直接かかわっていなくても加害者だという認識を持っていた。それは私だけでなくクラス全体がいじめはダメだと理解していたと思う。そのように学校での教育によっていじめに対する考え方は決まってくると思う。また、「いじめられて死ぬのは甘えだ」といった意見があるが、それには全く同意できない。いじめは人を傷つける行為であってしてはいけないという考えを理解していればいじめが起こることはない。仮に起こったとしても、いじめはいけないことと理解している人が多ければ観衆は盛り上がらず、傍観者はいじめ反対者になり、止めることだってできる。また、被害者の味方が増えることで助けを求められて死を防ぐことだってできる。このような考えから、「いじめの四層構造論」の、いじめが盛り上がるのか、収まるのかは観衆と傍観者で決まるという意見に同感する。>(H)