バラの季節

これからは、バラの花が綺麗な季節である。例年だと、自宅から車で20分ほどの八千代市の「京成バラ園」にバラの花を見に行くのであるが、今年はコロナ禍の為にバラ園が休園になっている。それでも、バラ園の外でバラを販売しているガーデンセンターが平日は開いているとのことで、そこのバラを見に出かけた。

ガーデンセンターでたくさんの種類のバラの苗木や鉢が販売されていた。ほとんどのバラが咲き始め、見ているとほしくなるものばかりだが、高価だし、手入れが大変なので、そこはぐっとこらえて、今回は見学だけにした(昨年は一鉢買っているが、手入れがよくなかったのか、家でのそのバラの咲きが芳しくない)。例年は平日でも大変混雑するところであるが、今日は人が少なく、しかも園の一部に無料で入れて、そこからがバラ園の様子を少し見ることができた。まだ満開まで少し日数がかかるようだ。満開時には、開園してほしいものだ。やはりバラは花の女王という気品や貫禄がある。

隣の家のバラも今は満開。毎朝観賞させてもらっている。

社会の定年と個人の元気さ

会社や学校など社会の組織には定年というものがある。今高齢化がすすみ,社会の組織の定年が延長されているとはいえ、60歳定年の企業も多いであろうし、公立の学校の教員の定年も基本60歳である。大学教員は勤めはじめた年齢が遅いので、65歳あるいは70歳定年のところが多い。社会で定められた定年と人の元気さや健康には個人差あるので、その間でギャップを感じること人も少なくない。

ただ、社会的に定められた定年に、人の意識も合せてしまう傾向もある。大学教員の場合、長年勤めた大学を定年で辞めることになると、あなたの研究能力と教育能力はここまでと社会的に宣告されたようなもので、「そうなのかな」といろいろな意欲も急速に萎んでいく。「大学教員の定年は不当」と、昔同僚だった先生が送別会の席で怒ったようにあいさつした時は少し驚いたが、今考えるとまともな意見のようにも思える。

そのような中で、フリーで活躍している人は、社会や組織の定年などの惑わされることなく、元気である。私と同世代の写真家の藤原新也は、今も写真を撮って個展を開いているし、本も出し、会員制のサイトCat Walkを開設し、ラジオの放送もはじめ、社会的な発言も続けて、世に大きな影響を与えている。昨日(5月9日)の朝日新聞夕刊にも、「コロナ禍 人々は変われますか」というインタビューに答え、人々を励ましている。

<飽食時代の欲望全開の自分を見つめ直す禁欲生活に入っているという見方もできる。人間関係で言えば、これだけ人恋しさを蓄えられる状況はないわけでしょ」「今ほど、人とのつながりや人の温かみのありがたさを実感するときはないだろう。被害意識も生まれやすいが、人には悪のやすりによって磨かれ、育てられる強さもある。気づかないまま自分の中でさびついていたものがあるじゃない」「コロナは人の味覚を奪うが、これからは食べ物の味を本当に味わうことができるかもしれないし、100%の愛情のうち下手したら10%くらいしか使っていなかったのを、コロナ明けからは70%くらい使って他者に接することができるようになるかもしれない。そうなったら人間の勝ちだ。それがニューノーマルになってほしい」(藤原新也 朝日新聞より1部転載)

(公開の shinya talkは,  www.fujiwarashinya.com )

ブログの一部を活字にする

以前にも書いたが、このブログにはカウンターも付いていないし、「いいね」もない。またコメントも受け付けていない。私からの一方的なもので、私の日記状態である。内田樹のブログはカウンターがついていてそのアクセス数は58,670,409回(本日まで)、藤原新也の会員制のTalkは1200人ほどだが、その一部は公開されると数万人の人が読む時があるという。それらと大違いで、私のものを読んでいる人は数人であろう。以前は同世代の水沼文平さんがよく読んでくれてコメントをメールで寄せてくれたが、その水沼さんが亡くなり、コメントを寄せてくれる人もほとんどいなくなった。人の反応を気にせず何でも書けるという利点はあるが、時々「たまには読んでほしいな、この意見に対してどう思うのだろう」と感じることもある。

そこで、ブログに書いたことを、少しまとめて活字にすることがある。最初は、『学生文化・生徒文化の社会学』(ハーベスト社、2014年)の第Ⅳ部コラムに2012~14年のものの一部を掲載した。2度目は、「敬愛大学国際研究第30号」(2017年)にその後のブログの一部を載せた。そして今回3度目で、「敬愛大学国際研究第33号」(2020年3月)に「教育知識の社会学―深い学びに向けて」と題して2017~20年の一部を掲載した。

本や紀要に載せたからといって読んでくれる人がそれほど増えるわけではない(大学の紀要を読む人は2~3人と言われている)が、ネットに疎遠な人や、私から送られ義理で仕方なく少し目を通す人もいるだろう。また大学の紀要に載せれば、学生に配布されるという利点もある(その為、今回も敬愛の学生向けに、過去の授業の記録などを中心に収録した)。学生諸君、是非読んでほしい。敬愛大学の学生へのエールも書いた。。

片思いについて

これは自分の少し素直でない感覚のせいかもしれないが、両想いより片思いの方が、心を動かされる。レ・ミゼラ、ブルの映画を見て、「結ばれる二人の愛よりは、新郎に片思いで、悲しみの中で革命の銃弾に倒れて死んでいく女性の思いの方が、はるかに心打たれるものがあった」(2013年8月3日、ブログ)と書いた。上白石萌音の片思いの歌On My Ownはよかったが、両想いのドラマ「恋は続くどこまでも」は、上白石のよさが出ていない。今の朝ドラ「エール」は、両想いの二人が外の障害を乗り越えていく物語のようでもの足りない。

韓国ドラマ「梨泰院クラス」は、先に書いたように、片思いがたくさん描かれたドラマである。グンス→イソ、イソ→セロイ、セロイ→スマ←グオン。その他にもいくつかある。ヒロイン・イソの片思いはかなり徹底していて、その実現性はかなり低く、両想いの二人に割って入ろうとするもので、ライバル⊡スマは超美人で性格も穏やかであり、誰からも好かれる女性で、到底勝ち目がないと思われる。それをはっきり言わのれた時のヒロイン号泣の仕方がすごい。そのバックに流れる曲(OSTの8番目の ユン・ミレーsay)がヒロインの悲しみをよく表現している。このドラマの1つのクライマックスのように思う。

この韓国ドラマでは片思いは公言され皆知っているが、日本の片思いは、葉隠れの恋(好きなことも相手に悟られてはいけない)的なところがあり、また多田道太郎が言うように「恋愛についていえば、それはオリジナルの向こうに、オリジナルを超えて自分だけの夢をみることである。自分だけのコピーをつくることである。(中略)それはコピーの向こうに、コピーを超えて、自分だけの夢、自分だけの「オリジナル」を夢みることである。もし,ほんとうのオリジナルである女優が彼の前に現われれば、彼は「それは違う」といわざるをえまい>(『管理社会の影』₍日本ブリタニカ、1979年)というように、自分だけの夢を見るオタク的なところがある(思われた女性からみたら、ストーカー的な気味悪さを感じるかも知れない)以前(2016年9月3日)のブログに書いたように、村上春樹の短編に、あこがれていた女性の現実の姿を、覗き見によって知ってしまった若い男性が、そのあこがれがなくなっていく様子を描いたものがある。(「野球場」『回転木馬のデット・ヒート』(講談社文庫、1988年)このように日本の片思いは、他者への愛というより自己愛に近い。

韓国ドラマ「梨泰院クラス」のヒロイン・イソのセロイに対する片思いは、彼を傷つけるものに対しては身を挺して守り、敵を殲滅するという強い意志に基づいたものであり、動物の母親が子を守る姿に似ている。その思いが相手に伝わらないのは悲しいが、そのことで気持ちが怯むことはない。でも相手が好きでしょうがいという気持ちは、態度に出てしまい。相手から少しでも優しくされると思わず笑顔が出てしまう。日本の女性のように(?)、自分の感情を隠したり、すねたりしないところが、見ていて気持ちがよい。

このドラマをみていると、演技が自然で、感情の行き来がよくわかる。日本のテレビドラマは、俳優の演技が下手なのか、不自然なセリフや態度が多く、がっかりするとが多い。ただこれは俳優個人の技量の問題だけではないかもしれない。日本のドラマでは周到なリハーサルが行われるのに対して、韓国のドラマは週に2回放映されるものが多い関係で、リハーサルはあまりなされず、ぶっつけ本番で撮影され、俳優のアドリブでの演技が多いので、リアルに感じることができる、と聞いたことがある。

 

ホームスクーリングの再考を

新型コロナの感染拡大は、社会の諸分野に影響を及ぼしている。教育の世界への影響も大きい。とりわけ、長期にわたり学校が休校になったことは、学校中心の生活を送っていた子どもたちの生活を一変させた。これまで学校が担ってきた教育機能の重要性が、平等性も含めて改めて認識される。

 一方で、自明であった学校教育の意義も問われている。効率優先の一斉授業、生きる力にならない知識、教師のクラスメイトへの叱責を聞く時間、退屈な学校行事、無意味な校則など、無くなってみるとスッキリすることが多い。これまでの学校教育のあり方の見直しが必要である。休校中の家庭での自由な学習、親子関係の親密化、ウエブ学習、地域での遊びの回復など、これまでの学校教育とは違った自由な学習や生活に、本来の興味や活動に目覚めた子どもたちも多いことであろう。不登校やホームスクーリングも見直されていい。

ホームスクーリングに関しては、私は20年以上前に原稿を書き(添付)、このブログでも2019年4月8日に、新聞記事などを紹介している。学校に通うことが当たり前の日本では現実感がなく、あり得ないことという認識が強かったと思う。

ところが、今年に入ってからの学校の休校、塾やお稽古の休止は、家で親が子どもの勉強を見ざるを得なくなり、まさにホームスクーリングの「実験」が日本中でなされたということである。ホームスクーリングの教師は親であり、外の教育の専門家(教師、塾、お稽古の教師)ではない。この「実験」の検証が是非なされてほしい。親による教育の効果はどうだったのかということを。

日本では教育やお稽古の専門家でない親が子どもの教育はできない、と考えられてきたが、実際やってみるとどうだったのか、かえって子どもの個性や興味やペースに合わせて効率的だったのではないか、デジタル教材も豊富にあり十分親でも教えられるのではないか、ピアノも自分で教えられたのではないか、ケガやケンカやいじめや病気の感染も心配しなくて安心できるのではないか、あるいはこの真逆の多くの体験談が寄せられると思う。さらに、外国のホームスクーリングの研究も進んでいると思う。それらをもとに、是非ホームスクーリングを再考してほしい。