写真のこと

何かをなす時、そのことの基本をきちんと学んでからやるのがまっとう方法だと思うが、面倒くさがり屋の私は、そのような方法をとらない。とにかく自己流にやってみて、途中で生きずまり正当な方法を学びたくなったら習う。年取ってから始めたテニスや卓球もそうで、テニスはさすがに基本が大事でいろいろ教わってきたが、卓球は自己流にやっても何とかなると思ってきた。しかしここに来て限界にぶち当たり少し誰かに基本を習いたいなと思うようになってきた。(ただ卓球は、テニスと違い教えてくれるところが少ない)

写真はデジカメなどでよく撮るが、一眼レフなどできちんと撮ることをしたことがない。カメラの絞りやシャッタースピードの理論を学んだ方がいいとは思いながら、いまだ偶然に頼りシャッターを押し、結果だけを見るので、一向に進歩がない。その為写真を見る目も養われず、いい写真かどうかの判定もできない。私が評論などをよく読む藤原新也は写真家でもあり、時々写真展やクローズサイトのメンバーに自身の写真を廉価で配布したりしているが、いい写真かどうか(あるいは好きな写真かどうか)の判定ができず、購入したことがない。

最近写真のことで一つ疑問に思うのは、集合写真と自然や人のスナップ写真の違いである。この2つは、どちらが写真として正統なのであろうか。それとも写真の2つの潮流なのであろうか(これも少し調べればわかることなのかもしれないが、わざわざ調べる気が起こらない)。藤原新也の写真を見るともちろん後者が多いが、会員制のサイトにはよく藤原新也を囲んでの集合写真が掲載されていることが多い。集合写真というのは、記念にはなるかもしれないが、写る人は人為的に写真用の顔を作るので、写真の芸術性からいうと何の価値もないのではないか。なぜ写真家の藤原新也がこのような写真をブログとはいえよく掲載するのかわからない。いつか聞いてみたい気がする。

吉本隆明の本で印象に残っていること

私も若い時、同時代の他の人と同様、吉本隆明の著作をたくさん読んだ。今その中で印象に残っていることを思い出すと、3つくらいのことがある。1つは、吉本が壇の上から講演をしていたいたら、下でヤジを飛ばす輩がいた。吉本は腹に据えかねて壇を降り、その輩と殴りあったというエピソードである(確か『情況』)。ここには当時の大学教授など知識人が偉そうなことを壇上から述べるだけで、壇を降りて行動しようとしないことへの批判が込められていたように思う。2つ目は、雑魚取りの網を持つもの(「雑魚・ザコ」)が、身を弁えず大きな魚を獲ろうとする愚かさを指摘していたものである(多分「著作集」のどこかあった)。有名になった芸能人が偉くなった気で、政治的社会的な発言をする愚かさを批判してのことだと思う(今はそれが当たり前になっているが)。3つ目は、芥川龍之介の自殺が時代思想的なものではなく,作家として生き詰まった文学作品的な死であるという指摘。芥川は、抜群の能力により出身の下層階級から上の階層に飛翔したが、育ちと違う階層の文化に耐えられず、創造力が枯渇して地に落ちたという解釈である。

第3のことが一番心に残っていて、私は教育と社会移動のことを学生に説明する時、使ったりしているが、最近読んだ本で全く同じところ(芥川の出身階層をめぐる葛藤)に注目している人がいて驚いた(鹿島茂『吉本隆明1』平凡社、2009)。育ちや育った時代がほぼ同じなのであろう。ただ、一つ気になるのは、このような時代的な出身階層の話は、今の若い世代に、うまく伝えられないのではないかということである。今は格差社会と言われながら、皆ある程度豊かな中流の生活を送っている中で、社会階層の移動や葛藤の話はピンとこないのではないかとも思う。

吉本隆明の文章を読んでいていつももう一つ感心したことは、ものごとの核心を短い言葉で的確に言い当てることである(キャチコピーのよう)。たとえば、「倫理的な痩せ細り方の嘘くらべ」*という言葉など。これは「良心と倫理の痩せくらべをどこまでも自他に脅迫しあっている」左翼を痛烈に批判した言葉だと思う。これは、今でも左右に限らず、またマスコミでも多いように思う。

*「着たきりスズメの人民服や国民服を着て、玄米食と味噌と食べて裸足で暮らし、24時間一瞬も休まず自己犠牲に徹して生活している痩せた聖者の虚像が得られる。そしてその虚像は民衆の解放のために、民衆を強制収容したり、虐殺したりしはじめる」(『情況へ』宝島、1994=鹿島pp.417-9

「問いほぐし」「学びほぐし」で前提を疑う

敬愛大学国際学部の若手の教育哲学研究者の佐藤邦政さん(准教授)が、私たちのテキスト『教育の基礎と展開―豊かな保育・教育のつながりをめざして』(高野良子・武内清編、学文社、2016年)に関して、「学びほぐす」という佐藤さん特有の概念で書評を書いてくれたことがある(「敬愛大学国際研究・30号、20173月」)。

佐藤さんは最近『善い学びとは何かー<問いほぐし>と<知の正義>の教育哲学』(新曜社、2019)という斬新な本を出した。その感想を書かなければと思っていたら、今日(1月13日)の朝日新聞の朝刊の教育欄に、佐藤さんの「問いほぐし」が、「主体的・対話的で深い学び」(アクティブ・ラーニング)につながるものだという説明が、大きく取り上げられていた。若い研究者の斬新な問題提起が、学びを深化させる。この機会に、教育哲学と教育社会学の関連も考えてみたい。

教育課程論・第14回 (1月10日) 講義の記録


第14回は、講義メモのような内容で話をした。その日のリアクションは 1 前々回、前回のリアクションを読んでの感想、2 半年間の講義で印象に残っていること、3「東京都教職ハンドブック」で印象に残っていること、4 不登校などに関しての朝日新聞記事の感想 についての4項目に関して書いてもらった

それを読むと、受講生たちが、講義に関して自分なりに興味や関心を持って、聞いてくれたことが伺える。一部を掲載する。