昔私小説というものがあり少し読んだことがある。小説は社会的なことを扱うのが主流の時代に、私小説はあえてどうでもよさそうな身辺の雑事をグダグダと扱い、それがかえって斬新に感じたことがある。現在もこの私小説というものが健在なのかどうか知らない。
教育社会学会や学校社会学研究会でご一緒したことがあり、エスノメソドロジーの優れた研究者である石飛和彦さん(天理大学教授)のブログを読むと、昔の私小説を思い出す。下記に最近のもの(12月12日)から一部転載させていただくが、日常的な些事を独り言のように書きながら、何か味わい深いものがある。わびしい(?)年末に読むのにふさわしい文章のように思う。
<ひとつ年を取りました。それとて別に報告するほどの事でもないし、そんなこと報告されたってどんな顔で読んでいいものか困惑するというのはその通りなんですが、まぁどうせこんなところにぐずぐずとつまらないことを書いていて、気が付いたらこの文章もそれなりの長さになっているわけなのできっと誰もここまで読んでいないであろう、公然とWWWで世界に向けて情報発信されていながらも驚くまいことか誰も読まないであろう、たぶんあとあとの自分だけが興味関心を持ってこの文章のこの部分を読むのであろうから、さすがに自分がかつてひとつ年を取ったという報告を自分で読んで困惑することもないであろうから、つまりいらぬ気づかいをする必要もないというものである。誕生日には鯛を焼くことにしているが今年はちょうど授業がない日で夕方から会議だったので、朝のうちにスーパーを回ってぶじ一匹購入、会議から帰宅して遅くなったけれどぶじ祝うことができたわけである。めでたかった。(www2s.biglobe.ne.jp/~ishitobi/)
追記—-石飛さんが、この書き込みを読んでくれたようで、1月21日のブログにそのことへの言及がある。石飛さんが、文章を書くことを楽しんでいることがわかる。日常的なことの記述とエスノソドロジーが関係していることも伺える。
<私小説、ということばを上げていただいたのはなにかうれしいかんじはする。いっぽう、ここにこうやってときどきぐだぐだと無駄な字を書き連ねているのは、まぁエスノメソドロジーということとはさしあたりかんけいなく、備忘のためとか記録のためとか、まぁしかし概ねは愉しみのために書いていて、私小説といえるかはわからないけれど、小説についての評論とか読んでおもしろそうだと思って、そういう気になってみると文章を書くというのはおもしろいものだ。というのはこれも若いころに、ナボコフの『ヨーロッパ文学講義』『ロシア文学講義』を読んで以来とくに思うのだけれど、まぁ自分の文章がナボコフのように(あるいはプルーストのように、フローベールのように、チェーホフのように、等々…)書けるというわけではなくて、まぁいずれにせよぼそぼそと独り言のように書いてるにせよ、しかし、どうせ自分でしか読まないのだからちょっといろいろ試しながら書いたりするのは存外、楽しいものなのである。>www2s.biglobe.ne.jp/~ishitobi/#new(