声について

新海誠監督が「君の名は」のヒロインの声に上白石萌音に抜擢したのは、彼女の声が「バイカル湖のような世界一透明な声、疲れた体を包む毛布のような声、心の奥の柔らかな部分まで届いて甘く懐かしい愛おしい痛みをもたらす声」とその透明度や愛おしさに感銘を受けてのことと明言している。(ブログ9月5日参照)

私は声に関してあまり関心を払ったことはないが、少し考えてみる。①松本清張の小説に有名な「声」という短編がある。②吉田拓郎と井上揚水の曲の違いは声の違いにもよる。③女優では常盤貴子の独特の声に惹かれるなど。④ついでに(?)身近なものの声も改めて聴いてみる。

声だけでなく映像も大切だと思った(上の写真は船橋在住の若い写真家によるもの)


実用的な知識の時代


10月14日の朝日新聞朝刊の教育欄(「高校の国語 文学を軽視?])をみると、今後の高校の国語教育も文学的なものでなく、実用的な知識重視の方向に舵がきられていることがわかる。

文部科学省の視学官の大滝一登氏は、「今回の学習指導要領の改訂では、実社会で求められる国語の能力を育てることに配慮しました。社会に出て会議や折衝の場面で小説や物語、詩歌をそのまま使うわけではありません。そのため両科目の教材には、社会生活に必要な解説文や記録、報告書など「論理的」「実用的」な文章を扱います」と述べている。

文学研究者の安藤宏東大教授は、文学の力を下記のように述べている.私はこちらを支持するが、今の時代少数意見であろう。「現実社会は多様な人間の利害や思惑が絡み合います。理解しがたい考え方にぶつかったとき、感情や心理を言葉で表現し、分析する力を磨くことこそが、実践的な論理的思考力の向上につながります。異質な他者や価値観と出あい、世界を根源から問い返していく力は、文学や思想、社会科学などの領域にまたがる「人文知」そのものです。文章を「論理的」「実用的なもの」と「文学的なもの」に分けること自体、問題です。小林秀雄の「無常といふ事」は死生観が変容した現代人の不幸を論じていますが、「論理国語」でしょうか、「文学国語」でしょうか」

大学教員の地位低下

大学教員の社会的地位は下がっているように思う。それは給与面だけでなく世間の大学教員を見る目(社会的評価)についても言えると思う。大学教員は、自分の狭い領域に閉じこもるオタクで、世の中のことには無知な人種と思われているのではないか。それで今大学教員に期待されることも様変わりしつつある。

少し前までは、大学と専門学校は同じ高等教育でも違うもので、大学の専門学校化は、大学の本質(真髄)を失うもので問題であると議論されていたが、最近はそのような議論は聞かない。この大学の学部が専門学校のようにいかに就職に役立つのかという広報ばかりが目につく、

大学の知識も実務的なもの実践的なものが重視されている。実務経験者の割合が一定程度いないと学部や大学院の設置認可が下りなかったり(教職大学院等)、授業料免許の援助の対象大学から外されたりする。今教育界はアクティブ・ラーニングというマジックワードが飛び交い、実践に役立たない知識は貶められている。

大学の入試は、もととも大学で学ぶ能力があるかどうかの判定の為に行われたものなので、大学教員が作成し採点するのが当然と考えられていたが、今は大学入試センタ―試験の主導権は、大学教員から高校教師や文部科学省の役人や民間に移管されようとしている(荒井克弘「高大接続改革」中央教育研究所研究報告No94 36p, www.chu-ken.jp/pdf/kanko94.pdfsannsyou

災害への備え

関東に住む人間にとっても、3.11の東北の地震の時のことは記憶に残っている。揺れは大きかったし、東北ほどでないにしても大きな被害があり、交通機関はマヒした。それで、今でも地震に対する備えをしている人は多いであろう。

それに対して、台風や大雨、強風に関しては、ここのところ関東地方で被害がなかったので、関東人は油断していたと思う。それがこの前の台風15号の被害が千葉県で甚大で、今回の台風19号に関しては、その備えの必要がマスコミの報道はじめとして強調され、各家の対策やスーパーや交通機関の対策も早くから取られるようになっている。昨日(11日)、千葉の店では水や窓に貼るテープも売り切れのところも多かった。夕方にスーパーやパン屋を通りかかるとパンが全て売り切れていた。この備えが功を奏する、あるいは台風の被害がなければいいが。もし台風の被害がない場合も、それはこれからの自然災害の備えや予行演習としての意味をもつであろう。

このようなのんきなことを言っていられるのは、まだ千葉も雨風が強くないせいかもしれない。先ほど(12日午前8時10分ごろ)うち(千葉市稲毛区)でも停電があったが、20分ほどで回復した。これからもっと長い停電や断水を覚悟しておいた方がいいかもしれない。

<追記1>現在12日21時15分。台風19号は伊豆半島に上陸。千葉は少し風が強い程度でこの前の台風15号の時に比べ雨風はそれほどひどくでない。地震はあったが、停電や断水はない。関東各地や東海や中部地方に大雨特別警報が出ているが、千葉には出ていない。台風の被害は、場所によって違うことがわかる。15号の時は風が強く、千葉で木や電柱が倒れ、屋根瓦が壊れ停電や断水が長く続き道路が寸断された。今回は大雨で、千葉ではない内陸部で河が氾濫し洪水の恐れがある。千葉県民は前回の教訓から今回はかなりの備えをしていたが、他の地区ではそれほど備えをしていなかったのではないか。備えの大切さを感じる。被害が大きくないことを願う。

<追記2>知人のU氏より下記のメールをいただいている。「それにしても同時多発の水害の多さには驚いています。今回の同時多発の河川の氾濫が示唆する日本の国土の治山治水の新たな問題の深刻さ・・・という課題に関心が広がってきました。災害への準備に加えて、高度成長型の日本列島改造から、人口減少段階に入った日本の国土の再編と再構築というテーマが浮かんでいます。」。次のように言う人もいる。「15号による風害や今回の水害の様相を見ると、これからは過去の事例では参考にならないような巨大台風や豪雨が日本のみならず世界各国を襲う可能性を今回の19号は知らしめているように思う。すでに2年前に台風の規模や強度の変化は節目を迎えていると思われ、これからはこれまでの日本の災害や風土に根ざした家屋の作り、あるいは台風来襲時の防護の方法も根本的に洗い直す必要があるのだろう。一例を上げれば過去から延々と日本の風景を形作って来た瓦屋根である。歴史を育んできたその美しい生活の工芸というものが房総を襲った15号台風によって機能しなくなった時代が来たように思う。おそらくあの瓦屋根が飛んだ地域では、早晩その屋根の風景は変わるだろう。」

教員志望の減少について

現在教員志望の学生が減り、教員採用試験の倍率も下がり、教員の質の低下が懸念されているという。朝日新聞10月7日の朝刊に編集委員の氏岡真弓氏が詳細な記事を書いている。(https://digital.asahi.com/articles/DA3S14207818.html?iref=pc_ss_date) この記事の内容に納得しつつ、別の側面も考える。

教員の労働環境が劣悪で、給与月額の4%上乗せ一律施行の「教育職員人材確保法」(人確法)以上の長時間労働(「過労ラインを超える教員が小学校で約3割、中学校で約6割いる」)が常態化し、教員という職業が魅力を失っている時期に、それでも教員になりたいという強い熱意のある人が教員になるといことであれば、それは逆境を強みに変えるという意味で、いいのかもしれないと思う。(もちろん、優秀な人材が教員以外を志望したり、採用倍率が低く楽をしても安定した給与が得られる職業として安易に教員を選ぶ輩が増えることは困ることで、それは少なくなるようにしなければならないことであるが。)

「これからの時代、教員はマニュアル通りではなく、自分で工夫して教えることが求められる。20年度からの新しい学習指導要領や大学入学共通テストで重視されるのは、自ら問いを立てて議論し、社会について批判的に考える力をつけることだ。」と氏岡氏が書いている。これまでの教員採用試験の型にはまった知識のテストに高得点を取る学生ではなく、「自ら問いを立てて議論し、社会に対して批判的に考える力」をもった学生が、教員を志望してくれるであれば、日本の教育の未来は開ける。その為には、批判性を重視する「教育社会学」はもっと教職科目の中で尊重されてもいいのだが、実践に役立ちそうな科目ばかり重視されている。