お金のことを話題にするのははしたないという文化が日本にはあると思う。講演の謝礼も、金額は明示されず、講演が終わってから渡され、そこではじめてその額を知る。原稿料もそうである。お坊さんへの礼やお布施も金額を聞くのははばかられ、適当に包んで渡す。
また、人それぞれ金銭感覚が違う。金銭(収入等)にこだわる人もいれば無頓着な人もいる。日頃の消費の額も、人により(あるいは世帯により)違う。1日の食事代も人や世帯によって違うのであろう。たとえば、お昼に500円のお弁当を買って食べることをつつましい(貧乏くさい)と感じる人もいれば、贅沢と感じる人もいるであろう。飲み会の会費が4000円だと安いと感じるのか高いと感じるのかは、人により違う。
私は戦後の貧しい時代に平均的な家庭に育った(つまり貧しかった)ように思う。父が中小企業のサラリーマンで祖母や母が内職をしてやっと生計が成り立っていた。つつましい生活だったように思う。家族で旅行に行くこともなかったし(そのような余裕はなかったのであろう)、外食をすることもなかった。そのような育ちから学んだことは、人は一生懸命働き衣食住が不自由なければいいということである。それで、金銭への執着もないと自分では思っている。高級住宅地、豪華な家、高級車、グリーン車、高級レストラン、ブランド服等に関心がない。(人はこれを評して「お里が知れる」とか「貧乏人根性」というかもしれない。*)
今、人と会って飲食をともにするような時、どのくらいの金額のところが適切なのか迷う時がある。働いていた時は、多少の高額でも気にならならなかい人が多かったように思うが、周囲が定年退職者ばかりになると、多くの人は費用(金額)のことが気になり出す(常勤で働いている人にはそれがわからないであろう)。お金のことを表に出すのははしたないという意識(文化)があるので、一層気を遣う(誰が払うべきなのか、割り勘にすべきかどうかということも含めて)。
*有島一郎だったか太宰治だったか忘れたが、自分の生家が金持ちの家であることを恥じたということを読んだことがあるが、私の場合はそれとは違い、自分の育ちが貧しかったが(ので?)、それを恥じるということはなかったということである。社会学を生業とするものは、貧者や弱者の味方になって論じるのが当たり前なので、困ることはない。リッチな生活を送り、貧者の味方のような論を展開する研究者は信用されないであろう。ただ、努力して社会的に認められること目指すことは否定されるべきでない。大学の教師でベンツに乗っている人はほとんどいないのではないか。大学教師で偉ぶっている人に会ったことはない.