スピーチについて

「スピーチをするときは、事前に何も用意せず、その場で思いついたことを話した方がよい」と同僚の先生が言っていたのが心に残っている。確かにその方が臨場感があり人の心を打つ話ができると思うのだが、「人の前に立ち頭が真っ白になり話すことが何も浮かばなかったらどうしよう」という心配が先に立ってしまう。パネルディスカッションの討議の場面で「あと1分後に自分が何か話さなければいけないのに何を話せばいいのか何も頭に浮かばない」という恐怖感を味わったことがある(でもその危機を間際で脱した満足感も大きいのだが)

先日(2月3日)東書教育賞の授賞式があり、審査委員の一人として3分間のスピーチ(講評)をすることになっていた。私はその場で機転を働かせる勇気がなく、用意した原稿を読みあげるだけのつまらないものになってしまった(下記参照)。ところが、他の審査委員の人(谷川先生、鳥飼先生、赤堀先生他)を見ていると、簡単なメモを片手に、実にいいスピーチをしている人ばかりで感心し、めげた。少し話し方を練習しなければ。

<審査委員の一人の武内です。ICTを除いた全体的な感想を述べさせていただきます。一番感じるますことは、応募のテーマや内容は、時代を反映したものが多いということです。一般に学校の先生方は、学校の中にこもって、あまり時代の変化には敏感でないという傾向があると思いますが、応募される先生方は、意欲的な方が多く、何ごとにも熱心で、時代の流れや要請にも敏感になっているように思います。今、学習指導要領の改訂で、授業や子どもの学習の仕方が大きく変化しようとしている時期です。その流れを敏感に感じとった実践が多かったと思います。特にアクティブ・ラーニング的なもの、すなわち「主体的、対話的で、深い学び」に関するものが多くみられました。この「主体的、対話的で、深い学び」というのは、抽象度の高い概念なので、具体的には幅広く解釈でき、実践でもいろいろ工夫のできること思います。それだけ、先生方の力量や実践の工夫がよく示せるキーワードのように思います。小学校の部で言いますと最優秀の田山雅弘先生は「熊本地震復興数え歌」を児童に作らせるのに先哲の考え、児童同士、地域の人の考えなどとの対話を多用し、発表会や新聞での公開という目標も設定し、人々に感動を与えるものを完成させています。優秀賞の山本かよこ先生は、聴覚障害児が個性に応じて主体的に学習する様々な工夫を音楽(楽器演奏等)で行っています。また優秀賞の赤川峰大先生らは、卒業に関わる各活動の「思い」を各自考え、それを皆で共有することから「思い出、感謝とエール、決意」という3つの思いに集約し、主体的に卒業行事を行う実践を指導しています。中学校の部では、最優秀の沼田芳行先生は朝の美術鑑賞というユニークな実践を行い、生徒が自由に表現し対話するというということをされています。優秀賞の木場和成先生は、社会科の授業で、既成の時代枠にこだわらず「新しい時代区分をつくろう」という課題を生徒に提示し、生徒が歴史的事象を多角的にとらえ対話しながら歴史を深く考える実践をされています。それらの「主体的、相互的で深い学び」の工夫、実践が高く評価されたのだと思います。またこれらの実践には、今の時代に求められている教科横断的な視点やカリキュラム・マネイジメントの視点も含まれています。これからの時代の教育に大切と感じることを2つ、申し上げたいと思います。今の時代、抽象的な教育論議より、具体的で実践的なことが大事だと思います。NHKの朝ドラが「モノづくり」(即席ラーメン作り)の万平さんを描いていますが、抽象的な理論やイデオロギーではなく、実際の子どもの教育や学習の実践やその成果が問われているように思います。もう一つは、今厚生労働省の統計調査が問題になっていますが、現実のデータをきちんとした方法で集め考察することの重要性です。最初に結論ありきのデータ蒐集ではなく、データに語らせる実践や研究が必要だと思います。さらに、時代の要請にのるだけでなく、各教科の独自の論理の研究や実践が積み重ねられてきていると思います。そのようなものも大切にした実践も期待したいと思います。今回も、このような要件を備えた応募の投稿が選ばれていますので、これらが日本の教育実践のモデルになり、日本の教育のレベルが一層向上していくこと願っています。 受賞された先生方、おめでとうございます。>

映画を見に行くかどうか迷っている。

今テレビやネットやDVDで映画をかなり見ることができるので劇場で映画を見に行く機会がほとんどない。私がこの前映画館に足を運んだのが幼い子ども(孫)ふたりとドラえもんの映画を見に行った1年前のことである。それも子どもが映画初体験という意味があったので行っただけで、ドラえもんをテレビで見るのと映画で見るのとどちらがよかったのかわからない。

・村上春樹原作の韓国映画「バーニング」が映画館で上映中というので、見に行こうかどうか迷っている。この前NHK・BSで放映されたものよりかなり長いというので、是非見たいと思うのだが、「長くて間延びしている」という評もあり、近くの映画館では上映されておらず、東京(TOHOシネマシャンテ、有楽町)まで行かなくてはならない(千葉から東京は遠い)。解説を読みながら迷っている。

<2019年2月1日よりTOHOシネマズシャンテほかにてロードショー。韓国の巨匠が村上春樹の短編を換骨奪胎し、狂おしさと謎が渦巻く青春映画。村上春樹の短編小説「納屋を焼く」を映画化し、昨年のカンヌ国際映画祭で「万引き家族」とパルムドールを競い合った韓国映画。しかも、2010年の「ポエトリー アグネスの詩」以来となるイ・チャンドン監督の久々の新作だ。そんないくつもの必見の要素が詰まった本作は、観る者の感性と解釈次第でいかようにも変容するミステリアスな作品である。文庫本でわずか30ページの原作は独自の脚色がさまざまに施されているが、おそらくイ監督にとって最も重要だったであろうポイントは、主要キャラクターの男女3人を“今を生きる韓国の若者たち”として明確に位置づけたことだ。主人公のジョンスは母に捨てられ、父は暴力沙汰を起こして裁判中で、アルバイトで食いつないでいる。そんなどん詰まりの人生が日常化したジョンスが再会した幼なじみの女の子ヘミは、彼の心のよりどころとなるが、外車を乗り回して高級マンションで暮らす年上の青年ベンの出現によって、ジョンスのかすかな希望は打ち砕かれていく。いわば、これは韓国における若い世代の失業や格差といった経済問題を取り込んだ三角関係の青春映画であり、イ監督は社会の底辺を漂流するジョンスの内なる鬱屈した感情を狂おしいほど生々しくあぶり出す。ところが本作がいっそう興味深いのは、原作小説に欠落していたその狂おしさがひたすら空転し、ジョンスとともに観る者を不穏に謎めく映画的迷宮の奥底へと引きずり込んでいくことだ。至るところにちりばめられたメタファーと伏線。例えば、そこに“ない”ものを“ある”ように見せかけるパントマイムをめぐる禅問答のようなエピソードは、現実と虚構の境界線が曖昧なメタ構造を持つこの映画の特異性を象徴する一方、生きる意味とは何かという深遠なテーマのヒントを仄めかしているようにも読み取れる。また中盤過ぎには、夕暮れ時の淡い光と闇が溶け合ったマジックアワーの素晴らしい長回しショットがあるのだが、その場面を転換点としてストーリーが激しく捻れ出す。3人の登場人物のうち、ひとりが突然消失してしまう謎。そして納屋ならぬビニールハウスを定期的に焼くのが趣味だと言い放つベンの謎。この一見関連性のないふたつのミステリーが脳内で結びついたとき、視界不良の霧の中にさまよい込んだ私たち観客は、それぞれ朧気な“答え”を夢想することができる。先にNHKにて吹替で放映された短縮バージョンでは終盤がばっさりカットされていただけに、ぜひともこの劇場版の底知れなく深い迷宮に身を委ねてほしい。(高橋諭治)(https://eiga.com/movie/89044/critic/