スターとファンとの関係

藤原新也の会員制のサイトの投稿欄に、一人の藤原ファンの会員が、最近村上春樹が早稲田大学に資料やレコードを寄贈するにあたり記者会見をした際、海外の記者会見では許容している動画の配信を禁止したことに対して、打算的で「自己陶酔型作家」ではないかというような意見を述べて、藤原新也や会員に同意を求めるような内容の投稿をしていた。
以前に村上春樹の原発に関する海外での記者会見に対して、藤原新也が批判していたことを思い出しての投稿だと思うが、藤原ファンであると同時に村上ファンである私としては、違和感をもった。
その投稿者の気持ちもわからないではない。ファンたるものその「スター」や「教祖」の言うことを全て信じる傾向があるからである。
村上春樹も「信用取引」ということを言っている。(村上春樹・川上未映子『みみずくは黄昏に飛び立つ』新潮社、2017.4.25)
「一生懸命時間をかけて、丹精を込めて僕が書いたものです。決して変なものではありませんから、どうかこのまま受け取ってください」という作家の依頼を、「わかりました」と信頼して受け取る関係が成立していること(134頁)。この「信用取引」こそ、その「スター」の言動に同調するファンたるものの真髄である。

しかし、人は一人の人を「スター」として仰ぎ見ているわけではない。スターAがスターBを批判した時、その両方をスターと考えていたファンは、自分はスターAともスターBとも違う考えの人間であることに気が付くことになる。

大学生のノート

小中高の教員は、生徒にノートの取り方を指導し、ノートの点検もしていることであろう。
大学では、教員たちが学生のノートの取り方を指導しているとは思えない。
私自身も学生のノートを見たことは、これまでに2〜3度しかない。それは、私が講義で何を話したかわからなくなり学生にノートを見せてもらって確かめた時と、講義内容が学生にどのように伝わっているのか確認した時のことである。

現在私は学生にあらかじめ質問を用意したリアクションを配り講義し、そのリアクションをノートがわりに使ってもらっているので、それが学生のノートで、書き方を指導(誘導?)しているようなものであるが、なかにはそれとは別に、自分独自でノートを取っている学生もいる。
今非常勤で教えている植草学園大学の学生で、私の話したことを、細部まで聞き取り、再構成して、時に図もまじえながら、きちんとノートを取っている学生がいる。
普通、大学での講義は、話した内容の幾分かに少数の学生でも関心を持ってくれればいい、というくらいの気分(覚悟?)で話しているので、このように私の話した内容が、きちんとノートに記載されているのもみると驚き、嬉しくなる。
下記にコピーを添付する(最初のものはリアクション、次ページが学生のノート)。

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