学校の「楽しさ」について

先週土曜日の午後、枯葉がハラハラ落ちて来る団地のテニスコートで、テニス仲間5人で1ゲームずつ交代で、ダブルスの試合をした。勝ち負けにこだわらないのんびりしたテニスで、「いいな」と、テニスをやる「楽しみ」をしみじみ噛みしめた。
このような、「楽しさ」は、卓球をやっている時は感じない。今は少し卓球に凝っていて、テニスより卓球をやることの方を楽しみにしているところはあるが、卓球仲間は私より数段上手で、卓球をやっている時は必死で、卓球に集中している。「楽しむ」どころではない。ただ終わってから「楽しかったな」と思うことはある。そして次にできる機会を楽しみにしている。

このように「楽しさ」というものは、それをやっている最中に感じるものと、やっている時は感じないで、その前後に感じるものがある。

学生に学校のことを考えてもらう前段階として、過去に通った学校や今の大学の「楽しさ」について次のような質問で考えてもらった。(受講生 13名)
 質問 「これまでの幼稚園・保育園、小学校、中学校、高校、大学の、楽しさは、どの程度ですか。 それぞれ、番号で答えてください。」
1 とても楽しかった 2 かなり楽しかった 3あまり楽しくなかった 4 全然楽しくなかった
 幼稚園・保育園( )、小学校(  )、中学校(  )、高校(  )、大学(  )

その結果は、「とても」と「かなり」「楽しかった」の回答を数えると、幼稚園・保育園10名、小学校12名、中学校9名、高校7名、大学10名という結果であった。この回答はサンプルが少なく、また特別支援の学校の教師志望の学生が多い中での結果なので、一般化はできない。
ただ、普通は高校が一番楽しい時として、学生は答えると、私は思っていたので、今回の結果は意外であった。

私の場合はどうかと考えると、小学校の時代が一番楽しく、その後中学、高校、大学と行くにつれて、「楽しさ」は薄れ、辛さが増していたように思う。ただ、今に役立っているのは(それは、今から考えれば「楽しかったこと」と解釈することができる?)、その逆の順序であったことと考えると、「楽しさ」とは何だろうと思ってしまう。
旅行の楽しみは、行く前(期待感)、旅行中、行った後(思い出)の3つがあると言われるが、学校の「楽しみ」は、どこに求めればいいのであろうか。

高校の柔道部同窓会    水沼文平

10月4,5日と柔道部の新制16回・17回・18回卒業の合同同窓会がありました。4日午後
3時に母校に集合、柔道場は新しくできた講堂にありました。広さにして約200畳、私
たちの頃、校舎の隅にあった木造の道場は50畳位でした。柔道部に在籍した柔道部員
暦年の名札が旧制3回卒の三船久三から始まり25回卒の愛知揆一など現在に至るまで
壁に取り付けられていました。三船十段書「文武一道」と進乎斎書「澤道」の額があ
りました。進乎斎は加納治五郎の雅号で三船が加納に依頼、母校に贈ったものと思わ
れます。名札の前で記念撮影をしてから懇親会場である松島のホテルに向かいまし
た。ホテルの窓から五大堂や小さな島々、遊覧船が展望できました。松尾芭蕉は「扶
桑第一の好風」を目の当たりにして「絶景の前では黙して語らず」で一句も残しませ
んでした。

参加者は16回が7名、17回は2名、18回は2名の11名でした。(なお物故者ですが16回
は11名中3名、17回が15名中2名、18回が12名中5名となっています)

13回卒あたりから歴代の主将の思い出話になり、13回卒のM先輩(故人)、14回卒の
H先輩(故人)、15回卒のI先輩(故人)が話題になりました。特にM先輩は得意技
が背負投げ、成績も優秀で後に裁判官になりました。卒業後も柔道場に度々姿を見せ
後輩を指導しました。15回卒はインターハイ出場、16回卒は県大会ベスト4まで勝ち
進み、17回卒は入学時に有段者5名もいながらベスト8で敗退しました。

当時の校長はK先生で水戸出身の方でした。道場にもちょくちょく見えられ小柄な生
徒をつかまえては寝技の稽古をしていました。監督はK先生で部長はI先生(生物)
でした。K先生は書道も担当され、生徒の左側に立ち左手を生徒の右肩に置き右手で
私の下手な字を直してもらいました。柔道部では「じっこさん」の愛称で親しまれま
した。

正月の二日は初稽古、コチコチに凍った道着を身に着け、県大会での優勝を誓い、極
寒の道場で若い体をぶつけ合いました。夏休みの一週間、合宿練習がありました。校
庭と広瀬川の間にあった「K会館」が宿舎でした。私も初めての話で驚きましたが、
16回卒が一年生の時は柔道場に寝具を持ち込み、自炊をしたとのことです。午前中は
青葉城の本丸や亀岡八幡宮までマラソン、その後に2時間ほど練習、午後は台原に
あった県警機動隊の柔道場で隊員と練習をしました。学校に戻って自由時間となりま
すが、50mプールに道着のまま飛び込み、広瀬川に行ってはボートを漕ぎ、「水切
り」遊びをしたものです。

現在柔道部員は4名(内女子1名)と聞いています。私たちの頃は、50名はいましたの
で腑に落ちないものを感じます。少々の打ち身や捻挫などはものともせず、急な亀岡
八幡宮の石段をうさぎ跳びで登り、首を絞められ失神してもめげずに練習に励んだも
のです。社会に出てから柔道で養われた「目標に向かって頑張る力」「他の人とうま
く関わる力」「感情をコントロールする力」「老人や弱者を労わる気持ち」などの非
認知能力が社会人としていかに大切かに気づきました。

来年の正月は高校の初稽古に参加したいと思っています。「乱取り」は無理にしても
「受け身」の練習くらいはしたいと思っています。

Flash mobについて

 私たちは、社会が秩序だって動き、毎日同じような日常が続くことを願っている。災害や戦争が起こらないことを願っている。
ただ、秩序だった平凡な毎日の中に、少しの意外性のある出来事が起こると、人生にスパイスがふりかけられたようでうれしくなる。特にそれが、芸術性に富んだものであったら、思わず笑顔がこぼれる。
 そのようなものとして、Flashmobがあるようだ。
 街中で、突然音楽が演奏されたり、ダンスが始まったり。
 全く期待していなかったことが始まり、生きていてよかったと思うのではないか。
 (どっきりカメラやモニタリングも同じようなものかもしれないが、公共の場で音楽やダンスが突然始まるFlashmob は、もう少し洗練されていて楽しい。)


昔 観た映画のこと

今は映画が巷に溢れていて、またテレビでもDVDでもネットでも映画がみられるので、映画の有難味が薄れている。
それに比べ、今から60年以上前の私の少年時代は、映画を観る機会はほとんどなく、映画と言えば、学校の映画教室か、夏休みに学校の校庭で布のスクリーに写し出されてものを見に行くくらいであった。
学校の映画教室は、小学6年生の時1度だけあり、確か市川崑監督の「ビルマの竪琴」を外の映画館に6年生全員で観に行き、担任の児玉先生が真っ赤に目を泣きはらしていたのが印象的であった。(とても「こわい」先生だったので、私たちはその先生が泣くとは考えられなかった)。
その頃住んでいた中山(市川市)には映画館がなかったように思う。映画を観るためには東京の日比谷まで行かなくてはならず、2度ほど親戚の「兄」(父の従弟)が、日比谷に連れて行ってくれた。
その時観た映画は、今でも鮮烈に覚えている。1つは、「沈黙の世界」(1956年)という海洋記録映画。確か2本立で、「カラコルム」(1955年)という沙漠の記録映画も一緒の上映であった。どちらの映画も感動的で、「映画っていいな」と少年心に深く刻みこまれた。
もう一度は、黒沢明監督、三船敏郎主演の「隠し砦の3悪人」(1958年)という時代劇である。その映画自体のストーリーも映像も強く印象に残っているが、そこに出ていた姫役の女性(上原美佐)のきりりとした美しさに,少年ながら心打たれた。
今日(7日)、たまたまNHKのBSにチャンネルを合わせたら「隠し砦の3悪人」をやっていて、つい(後半だけであるが)見てしまった。黒澤明監督の作品だけあって、映画として時代を感じさせない質の高いものであり、このようなよい映画を昔観た至福を感じ、その映画を観に東京(日比谷)まで連れて行ってくれた、今は亡き「兄」に感謝した。

学習指導要領の日本語について

学習指導要領に内容は、教育、特に教育内容(教科内容)の基本である。
それはだいたい10年ごとに改訂され、それに基づいて教科書が作成される。
また、教員採用試験でもその内容が出題されることが多いので、学生達は、その文言を暗記することが奨励される。
そのうち総則は、基本中の基本であり、特にその最初の部分は小中高も同じで、重要な部分である。

私は、文学にも法律やお役所の文書にも疎いので、偉そうなことは言えないが、その文章は、日本語としてどうなのかと思うことが多い。読み慣れないものからすると、何を一番言いたいのかわからないし、読んでいると頭がクラクラする。

とにかく、いろいろなことを網羅し、過不足なく取り込もうとする文章になっている。
具体的には、「〜とともに」「〜ながら」「〜はもとより」「〜を図りながら」「〜を考慮して」「〜に基づき」「〜する中で」「〜を目指し」「〜に従い」」「その際」「〜に応じて」「〜し」「〜して」「〜させ」「〜するために」「〜とし」「〜のため」「特に」といった少し違った言葉を使って、あらゆることを並べていく(下記参照)

そこに並べられた内容は、下記のようなキーワードで、現代に必要なことで、学習指導要領に盛り込みたいことであることはわかるが、上記のような言葉を羅列してキーワードを並べるというのは、普通の日本語とは言えないように思う。国語学者が入り、まとうな日本語にしてほしいと思う。
キーワード
個性、生きる力、主体的、対話的で深い学び、多様な人々との協働、言語活動、学習習慣、豊かな心や創造性、教育活動全体を通じての道徳教育、伝統と文化を尊重、他国を尊重、家庭や地域社会との連携、教科等横断的な視点,カリキュラム・マネジメント

新学習指導要領  総則 
1 各学校においては,教育基本法及び学校教育法その他の法令並びにこの章以下に示すところに従い,児童の人間として調和のとれた育成を目指し,児童の心身の発達の段階や特性及び学校や地域の実態を十分考慮して,適切な教育課程を編成するものとし,これらに掲げる目標を達成するよう教育を行うものとする。
2 学校の教育活動を進めるに当たっては,各学校において,第3の1に示す主体的・対話的で深い学びの実現に向けた授業改善を通して,創意工夫を生かした特色ある教育活動を展開する中で,次の⑴から⑶までに掲げる事項の実現を図り,児童に生きる力を育むことを目指すものとする。
⑴ 基礎的・基本的な知識及び技能を確実に習得させ,これらを活用して課題を解決するために必要な思考力,判断力,表現力等を育むとともに,主体的に学習に取り組む態度を養い,個性を生かし多様な人々との協働を促す教育の充実に努めること。その際,児童の発達の段階を考慮して,児童の言語活動など,学習の基盤をつくる活動を充実するとともに,家庭との連携を図りながら,児童の学習習慣が確立するよう配慮すること。
⑵ 道徳教育や体験活動,多様な表現や鑑賞の活動等を通して,豊かな心や創造性の涵 かん 養を目指した教育の充実に努めること。
 学校における道徳教育は,特別の教科である道徳(以下「道徳科」という。)を要として学校の教育活動全体を通じて行うものであり,道徳科はもとより,各教科,外国語活動,総合的な学習の時間及び特別活動のそれぞれの特質に応じて,児童の発達の段階を考慮して,適切な指導を行うこと。
 道徳教育は,教育基本法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき,自己の生き方を考え,主体的な判断の下に行動し,自立した人間として他者と共によりよく生きるための基盤となる道徳性を養うことを目標とすること。
 道徳教育を進めるに当たっては,人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を家庭,学校,その他社会における具体的な生活の中に生かし,豊かな心をもち,伝統と文化を尊重し,それらを育んできた我が国と郷土を愛し,個性豊かな文化の創造を図るとともに,平和で民主的な国家及び社会の形成者として,公共の精神を尊び,社会及び国家の発展に努め,他国を尊重し,国際社会の平和と発展や環境の保全に貢献し未来を拓 ひらく主体性のある日本人の育成に資することとなるよう特に留意すること。
⑶ 学校における体育・健康に関する指導を,児童の発達の段階を考慮して,学校の教育活動全体を通じて適切に行うことにより,健康で安全な生活と豊かなスポーツライフの実現を目指した教育の充実に努めること。特に,学校における食育の推進並びに体力の向上に関する指導,安全に関する指導及び心身の健康の保持増進に関する指導については,体育科,家庭科及び特別活動の時間はもとより,各教科,道徳科,外国語活動及び総合的な学習の時間などにおいてもそれぞれの特質に応じて適切に行うよう努めること。また,それらの指導を通して,家庭や地域社会との連携を図りながら,日常生活において適切な体育・健康に関する活動の実践を促し,生涯を通じて健康・安全で活力ある生活を送るための基礎が培われるよう配慮すること。
3 2の⑴から⑶までに掲げる事項の実現を図り,豊かな創造性を備え持続可能な社会の創り手となることが期待される児童に,生きる力を育むことを目指すに当たっては,学校教育全体並びに各教科,道徳科,外国語活動,総合的な学習の時間及び特別活動(以下「各教科等」という。ただし,第2の3の⑵のア及びウにおいて,特別活動については学級活動(学校給食に係るものを除く。)に限る。)の指導を通してどのような資質・能力の育成を目指すのかを明確にしながら,教育活動の充実を図るものとする。その際,児童の発達の段階や特性等を踏まえつつ,次に掲げることが偏りなく実現できるようにするものとする。
⑴ 知識及び技能が習得されるようにすること。
⑵ 思考力,判断力,表現力等を育成すること。
⑶ 学びに向かう力,人間性等を涵 かん養すること。
4 各学校においては,児童や学校,地域の実態を適切に把握し,教育の目的や目標の実現に必要な教育の内容等を教科等横断的な視点で組み立てていくこと,教育課程の実施状況を評価してその改善を図っていくこと,教育課程の実施に必要な人的又は物的な体制を確保するとともにその改善を図っていくことなどを通して,教育課程に基づき組織的かつ計画的に各学校の教育活動の質の向上を図っていくこと(以下「カリキュラム・マネジメント」とい。)に努めるものとする。

追記 上記に関して、学習指導要領に詳しい研究者のU氏より、下記のようなコメントをいただいた(メールの一部を抜粋)
<学習指導要領の文章の奇妙さ、私も全面的に同意します。悪文の代表ともいえますが。法律に準ずる、という縛りが影響しているということを聞いたことがあります。しかし、それ以上に、一つの文章に、さまざまな立場からの意見をすべて並列して、意味不明となることを厭わず(承知で)、加筆に加筆を重ねている(確信犯)としか思えません。これは学習指導要領だけでなく、行政上の条例でも類似した語法が乱用されています。しかし、あえて言えば、だから解釈の幅が広がるのかもしれません。
実は学校現場では、総則ではなく教科等のほうに関心があります。とくに授業者にとっては、教科の目標と内容にしか興味がないといっても言い過ぎではありません。
総則に興味をもつのは研究者と教育委員会の指導主事ともいえます。また学習指導要領を一番真剣に読むのは教科書会社のスタッフでしょう。(教科書会社は)全国の先生方のために、だれもが標準の授業を実践できるように、教科書とガイドの編集に苦労されています。>