高齢になり、現役を引退してからの毎日の過ごし方をどのようにすればいいのか、迷うことが多い。他の人はどのようにしているのだろうかと思う。
私の場合、あまり学校や大学の同級生や職場の元同僚の先生に会う機会がないので同世代がどのように過ごしているかの情報交換ができない。
高齢者が同級生や元同僚に会うと、その時の話題は3つあるという。①健康や病院通いのこと、②年金やお金のこと、③孫のこと、-何か、話題が狭く、さびしい。
私の場合、テニスや卓球で一緒する高齢者は多いが、そこでの話題は、そのスポーツのことに限られる。今テニスでは、大坂なおみや錦織圭のこと、卓球ではラケットのラバーのことなどが話題になるが、それ以上の話題に発展することはない。
私の周囲の大学教員の先輩たちは、私より高齢にも関わらず、研究意欲が旺盛で、次々文章や論文を書かれたり、本を出版されたりする方が少なからずいて、敬服の念を禁じ得ない。
中央教育研究所の理事会でご一緒している鳥飼玖美子先生(立教大学名誉教授)より最近のご著書『子どもの英語にどう向きあうか』(NHK出版新書、2018.9)をお送りいただいた。
これからの子どもの英語教育に関して心配している母親たち向きに書かれた本であるが、その点に関する示唆的なことが語学や心理学や教育学の知識に裏打ちされながらわかりやすく書かれている。
それだけでなく、日本の英語教育導入をめぐる明治以来の英語教育史が詳しく書かれている。大変感銘を受けると同時に、いろいろ歴史的なことを学んだ。
昔「モノグラフ高校生」の調査でお世話になった深谷昌志先生(静岡大学名誉教授)は隔月で奥様(深谷和子先生)と研究会を開催され、ニュースレターを配信されている。
その中に深谷先生は、毎回、教育に関する古典のレビューを書かれている。それを読ませていただくと、自分がその教育学の名著を読んでいないことを恥ずかしくなり、今からでも読まなくてはならないと思う。
今回のニュースレター60号では、斎藤喜博の本が紹介されていて、是非読まなくてはと、感銘を受けた。その一部を転載させていただく。
子ども問題の本棚から 27
斎藤喜博 「可能性に生きる」 文芸春秋 昭和41年 深谷昌志
本書は1952(昭和27)年から11年間、群馬県佐波郡島村(現在・伊勢崎市境)の「島小学校」の校長をした斎藤喜博(1911年~1981年)の自伝である。しかし、斎藤喜博が「島小」を去って半世紀、没後40年近くなると、「島小」も「斎藤喜博」も忘却の彼方となりつつある。しかし、教育実践の歴史の中で、一時期バイブル視もされたこの書とその背景を改めて読み直してみることにした。
○「島小詣で」をする人たち
本書によれば、「11年間に1万人近い人が、じかに自分の目で、島小の教育や島小の子どもや島小の教師を見た」という。特に赴任の翌年(昭和28年)に、斎藤が東大の宮原誠一研究室と提携して「全村総合教育」を推進したので、太田尭(東大教授、教育学会会長)や丸岡秀子(農村婦人問題などの評論家)などの著名人が島小を訪ね、村を活性化させている。さらに、「世界」(岩波書店)が、「村の小学校―島小学校の記録(昭和35年4月)」を特集しただけでなく、「文芸春秋」(昭和37年7月号)は、新進の芥川賞作家・26歳の大江健三郎が島小の実践を2日間見学したルポルタージュ・「未来につながる教室 群馬県島小学校」(後に書籍化)を掲載している。もちろん、斎藤喜博自身も「学校づくりの記」(昭和33年 国土社)などの著作を表しているが、こうした動きを背景として、「島小」は戦後の民主教育の聖地のような感じとなり、島小詣でをする教育関係者が跡を絶たなかった。(中略)
「太造じいさんとガン」の事例は、斎藤が赴任して8年が経ち、島小では教員集団にありがちな閉鎖性が打破され、教員間に教材研究を切磋琢磨する態度が定着したことを示している。船戸も赤坂から刺激を受け、学級の35人の「ひとりひとりのノートをたんねんに」読むようになる。「子どもたちは、どこかによいものを持っていた。ノートのすみにも、自分を出していた。私はその小さな子どもの考えを引き出しては授業をすすめた」という。斎藤は、教師たちにいつも、どの子も良さを持っている。その良さに気づき、良さを引き出すのが教師の使命だと説いている。「可能性に生きる」である。そして、斎藤の指導を受けて8年、前述の文章は、船戸が斎藤の理念を身につけたことを示している。(中略)
斎藤は、「くだらない形式的な通達や指示などはほとんど無視していた」。「8回もやった公開研究会も、教育委員会などには一度も案内を出さなかった」。そうした意味では「公立学校であるのに一つの独立王国だった」と回想している。教育学的に見て、理想に近い学校論だとは思う。(以下 略)