カズオ イシグ「わたしたちが孤児だったころ 」を読む

遅いペースだが、カズオ イシグの本を翻訳で読んでいる。今回は「わたしたちが孤児だったころ 」を読んだ。
戦前の上海が舞台で、時代に翻弄される人々の生活と心理が描かれ、推理小説のような面白さも感じる小説。
これは本筋とは関係ないが、イシグロの主人公が、接する人の表情や心理を敏感に感じ、それに反応する描写が多く、興味深い。
イシグロの作品をさらに読みたくなった。

この本の感想は、ネットに載っているものを転載しておこう。(https://bookmeter.com/books/525854)
<両親の失踪で孤児となる。前半は子供の世界観と大人の世界観の相容れなさ(主人公は両親と彼らを取り巻く人々の間の葛藤、アキラは日本に馴染めないなど)が主体として描かれる。読みながら、自分の少年時代(自分は孤児ではないけれど)に世の中をどのように見ていたかが懐かしく思い出される。後半は探偵ものらしく、両親の手がかりを追って上海での生活が描かれる。そこで少年時代に知り得なかった「大人の事情」に翻弄された両親の真実を知ることとなる。その真実を突き止めるために探偵となった主人公には、ショッキングな真実が待っていた。>
<1920年代の上海。イギリス人で10歳のクリストファーは両親の失踪事件により突然孤児となった。親戚のいるイギリスへ帰郷させられた孤独な彼の心を支えてきたのは、失踪事件を解決し両親を救うこと。その為にイギリスで探偵として名を上げ上海に乗り込む。翻訳もの特有の違和感や独特の世界観で読み難いところもあるが、混沌とした上海で記憶を頼りに調査を進めるところは先が気になり面白かった。最後に待っていたのは辛い真実だったが、両親の事件に囚われていた心が解放され、今度は自分の人生を生き始められそうでホッとして本を閉じた。>
<幼い頃の記憶はたいてい甘美なものかもしれないが、異国で、しかも両親の失踪などという出来事に見舞われたらどのようなメモリーが刻まれるのだろうか。サラ、アキラ、フィリップおじさん、そしてジェニファーの存在を軸に読み進んだが、最後にクリストファーが母親と再会し、交わした会話に何とも言えない情愛を感じた。クリストファーに刻まれたメモリーもジェニファーの申し出によって新しい方向に向かって行きそうだ。最後の最後で救いを感じた一冊だった>
<子供時代の記憶(大人が思っている以上に周囲の状況を理解し、乗り越える能力がある)を反芻しながら、両親の失踪事件の追跡調査が展開される。その結果見えてくるのは、戦争によって運命を狂わされたものたちの悲しい足取りであった。皆、普通に幸せに生きることを願い、穏やかに暮らそうと努めてきただけなのに。努力も虚しく空回りの地獄。でも最悪の状況下でも最善を願い前を向く。子供時代の行動や心理状態の描写など、相変わらずイシグロ氏の観察眼は鋭く、表現力(筆力?)も秀逸。大国の帝国主義政策に対する批判的作品。>
<クリクトファーとサラとジェニファーと。 孤児たちは自分の孤独と向き合いつつ、世界を相手に戦っている。魂の触れ合いがあることが救いだけれど、自らの幸せを追求することからも遠ざかって。ただ、真実を知ることだけが魂の救いであると信じて。さすがカズオイシグロ。重層的な筋運びに東洋西洋の狭間を生き抜いた筆者の姿も垣間見えるようで、圧巻の一冊でした。>
<19世紀の世界は今よりずっと野蛮で権力者の権力も大きかった。国家が成長するために他国を侵略するのが普通だった。そんな残酷な世界の中では大人もまるで寄る辺ない子供のような存在となってしまう。人がどこか壊れていってしまう描写から、どんな時も強く生きることができる人間なんていないというニュアンスのメッセージが感じられた>

移動しなくていい社会を作っては

「地方に住む若者たち」のところに書いたが、最近の若者は生まれ育ったところが好きで遠くに行こうとしない傾向がある。これでは異文化体験ができず、視野が狭くなってしまうことが懸念される。
 
 ただ、車で遠方に行くと、高速道路といえども時間はかかるし、渋滞や事故もあり、運転には一瞬の油断も許されず、どうして人はこんなに移動するのだろうと思う。
 もっと自分の住んでいるところで自足して満足すれば、人はこんなに移動しなくていいのにと思う。
 その為には、生活に必要なものは近くで供給され、風光明媚な場所も近くにあり、日々の生活が快適で充実したものであればいい。
住んでいる人も多様でわざわざ遠くに行かずとも、多様な文化に触れ、異文化体験ができるようになればいい。
移動しない人間を基調にした社会作りができないものかと、夢のようなことを考えている。

追記
住みやすい都市や街の上位に上がるのは、このように自足した多機能のところかもしれない。札幌、仙台、横浜、神戸、福岡などがこれにあたるように思う。
それでも、仙台に関しては、水沼さんから次のようなコメントが寄せられている。
<仙台は政宗一色ですが、それぞれの時代に優れた人物を輩出しています。「なぜ仙台人は郷土の歴史と先人に興味を持たないのか」「なぜ仙台人は新しいものに飛びつくのか」「なぜ仙台人は権力に弱いのか」、こんな研究テーマを持ち始めました。>

昔懐かしい場所ー野尻湖

過去に長年過ごした場所や思い出のある場所を訪れると、懐かしく、いささか心を動かされる。
特に通った学校(小中高)や大学、長年働いた職場などは、近くに行っただけで、当時のいろいろな思い出が蘇り、懐かしくなる。心休まる場合もあるが、逆に心穏やかでない場合もある。
私の場合、自分の通った大学、そして最初の職場はあまりいい思い出はなく、駒場も本郷もあまり近づきたくない場所である。

ただ学部生・大学院生、助手の時、夏のよく行った大学の寮(野尻湖寮)は、楽しく懐かしい思い出がたくさんある。
大学のクラブの夏合宿(男だけ50名近くの荒ぽい合宿だった。合宿の最終日には後輩が先輩を服を着たまま湖に投げ込む恒例の儀式もあった)、学部3年次の教育調査の調査票作りの為の夏合宿はいつも野尻寮で行われ、(私は助手時代、松原治郎先生の助手として毎年ご一緒した)、当時学部生で今は学会で活躍している後輩との思い出も多い(例えば小林、近藤、渡部⁂、耳塚、苅谷らの各氏)。友人や家族とも過ごした。

野尻寮は木造2階建てで、素朴な野尻湖の湖畔にあり、桟橋の間で泳げて、ボートや卓球台があり、妙高高原の山々が見えて、いろいろな人と過ごした楽しい思い出だけが残っている。
そこを半世紀ぶりくらいに訪れる機会があり、昔を懐かしんだ。大学の寮の建物はもう取り壊されてなくなっていたが、桟橋は残っていて、場所の雰囲気は昔のままであった。

⁂*集団生活嫌いの渡部真さんが、学部3年生の時、勇気を出して合宿に参加し、1泊だけだったが、皆と一緒に過ごせたのは画期的なことだったのであろう。その渡部真さんは今年亡くなり、もう会えないと思うと寂しい。湖畔で冥福をお祈りした。横浜国大と上智の学生との合同合宿も懐かしく思い出す(こちらは山中湖や軽井沢で行った)

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猛暑に思う

例年にない暑さが続き、うちでも例年はほとんどクーラーなしで夏を過ごすのだが、今年は1箇所だけクーラーが付けぱなしになっている。それだけ今年は暑いのであろう。

でも、これまでも夏はこのくらい暑かったのではないかという気もする。
昔8月上旬の一番暑い時に信州で3〜4日過ごし、涼しくて快適で、一番暑い時の避暑はこんなに体にいいものかと思ったことがある。

自分が小学生の頃(1950年代)、夏休みといえば、午前中の涼しい時に少しだけ夏休みの宿題をして、その後は親戚の子や友だちとセミやトンボやチョウチョウを採りに行ったり、草野球をして、暑い夏を過ごした記憶がある。その頃は家にクーラーや(電気)冷蔵庫もなく、夏が暑いのは当たり前で、その暑さを楽しんだ記憶がある。

その頃(1956年)の7月の東京の平均気温を調べると25.9度、最高気温28.1度とある。今年の7月の東京の平均気温28.7度、最高気温33.1度である。今年は60年前と平均気温で3度ほど高く、最高気温で5度ほど高い。確かに、地球の温暖化が進んでいるのかもしれない。今年は特に猛暑である。
(ちなみに東京オリンピックのあった1960年の最高気温は、7月29.8度、8月30.4度である。)
http://www.data.jma.go.jp/obd/stats/etrn/view/monthly_s3.php?prec_no=44&block_no=47662&year=&month=&day=&view=a2

ただ、7月と8月では年により気温の高い月が違っているので、今年は8月になり気温が下がることを願う。

追記1ー7月26日(木)は30度を超えているが、前日より2〜3度下がったのであろう。涼しく感じる。暑さ―寒さの感じは、相対的なところもある。
追記2-「日本の夏の高温化の主な原因は、取り沙汰されることが多い地球温暖化ではなく、ヒートアイランド現象にある。」という説もある。」
webronza.asahi.com/science/articles/2018071900009.html?iref=pc_ss_date

他者からの呼びかけ

運動能力のない私は、長年やっているテニスも卓球もなかなか腕は上達しないが、最近少し運動(特に球技)のコツのようなものが1つわかってきたような気がする。
それは、相手の打った球の勢いやリズムをいち早く感じそれと一体化し、それに呼応するように自分の体を反応させ、ラケットを差し出したり振ったりすればいいということである。
まず、自分を無にして相手のリズムに乗るというのが、大切のような気がする。そのリズムを感じさえすれば、その後の自分の動作は自然に出てくる。

有名な内田樹氏のブログを読んで、氏が武道に関して書いていることが、これと似ているなと思った。(内田樹研究室 blog.tatsuru.com)

<武道の要諦もまた他人の内部で起きていることに感覚の触手を伸ばすことにある。武道の場合は、自他の心身の間の対立を取り去り、自他の境界線を消し、「眼前に敵はいるが、心中に敵はいない」という「活殺自在」の境地に至ることをめざすわけであるが、その能力はまた他者との共生のためには必須のものだ。>
<武道が目指すのは「いるべきところに、いるべき時にいて、なすべきことをなす」ことです。いるべきところ、いるべき時、なすべきことを決めるのは、私の自由意志ではありません。そうではなくて、私たちに対する他者からの「呼びかけ」です。「呼びかけ」、英語で言えば、vocationとか callingということになるでしょう。これらは「呼びかけ」とともに「天職」「召命」を含意する語です。他者からの呼びかけに応えて、私たちは自分がいつどこでなにを果たすべきかを知る。「呼びかけ」のうち、もっとも受信しやすいのは、「救い」を求める声です。飢餓、寒さ、痛みなどは、どれもそれを放置すると命にかかわる身体感覚ですが、それはいずれも他者の緊急な介入を求めています。
人倫の基本は「惻隠の情」ですが、言い方に言い換えると「緊急な介入を求める他者からの救援信号を感知すること」ということになろうかと思います。>

さらに、内田氏は、家事や教育一般や家庭科教育に関して、下記のように書き、このように相手の思いに気が付くこと、それに答えることの大切さを説いている。

<家事というのは、本質的に他人の身体を配慮する技術なのだと思う。清潔な部屋の、乾いた布団に寝かせ、着心地のよい服を着せて、栄養のある美味しい食事を食べさせる。どれも他者の身体が経験する生理的な快適さを想像的に先取りする能力を要求する。家事においては、具体的な技術以上に、その想像力がたいせつなのだと思う。>
<学校教育とは、子どもたちが「他者と共生できる能力」を身につけることができるように支援することだ、というのが私の個人的な定義です。
この場合の「他者と共生できる能力」の中には、言語によるコミュニケーション能力や、合意形成能力や、「公共意識」など、さまざまなものが含まれますが、どれほど高度な社会的能力にせよ、その基本には、「惻隠の情」すなわち「他者からの緊急な介入を求める呼びかけを聴き取る力」、そのさらに基本には「他者の身体経験、生理過程に想像的に同期できる能力」がなくては済まされません。
家庭科教育はまさにそのような能力の開発にフォーカスした教科であろうと私は考えています。生活をともにする人たちの身体の内側で起きていることに想像的に触手を伸ばすこと。そのような能力がどれほどたいせつなものであるか、それについての社会的な合意はまだまだ不足しているように私には思われます。>

内田樹氏の本は、これまで何冊か読んで、大学教員にしていろいろ評論を書き、高橋源一郎と同じような進歩的文化人という印象をもっていたが、その経歴を見て、自分も少しだけ重なるところがあり、もう少し読んでみようかという気になった。
経歴―1950年大田区下丸子に生まれる。1966年都立日比谷高等学校に入学、後に退学、1970年東京大学教養学部文科III類に入学。1975年同大学文学部仏文科を卒業。以下略