家族が皆新潟にスキーに行ってしまい、私は犬と家で留守番しながら、普段は狭く感じる家が、ひとり(と犬)では広過ぎると感じている(冬の寒さもひとしお感じた)。
人が住むのに家の広さはどのくらいが適切なのであろうか。
もちろん、都会と地方では違うであろう、家族構成にもよるし、また時代によって変化していることであろう。
戦後2DKの団地が出来、40平米くらいの部屋が、新しい核家族の標準の広さだったように思う。その後は3DKや3LDが標準で、広さも60平米くらいになっていた。今の分譲マンションの広さを広告でみると80〜90平米くらいが標準になっているので、人は段々広い部屋に住むようになっていると思う。
核家族ではなく、拡大家族(2世帯)で住むのなら、広い家が必要であろうし、単身者であれば、狭くていいであろう。
それと家や部屋にどのくらいの家具を置くかの考え方によっても部屋の広さは変わってくるであろう。
部屋の広さにより、タンスなどの上にモノが置かれるかどうかが変わってくるという生活学会の報告(部屋が狭いと、タンスなどの上にどんどんモノが置かれ、部屋がますます狭く感じる。広い部屋だと上に何も置かれずスッキリする)を読んだことがある(中鉢正美編著『生活学の方法』ドメス出版、1986)。
昔私の家族は、住んでいた団地の3LDKの部屋が狭く感じ、同じ団地内で4LDKの1部屋多いところに引っ越し、金額で1千万円近くの出費があった。よく考えると使わない大きなソファーセットがあり、それを捨てれば引っ越しは必要なかったと、後で思った(30万円のソファーセッㇳを置くために1千万円出費する不合理さにその時気が付かなかった。)このように、不要な家具を捨てれば、狭い部屋でも十分快適に過ごせる。
成長期の子どもはいろいろなことに興味を示すので、広い家が必要かもしれないが、年寄りや単身者は、狭い家や部屋の方が便利であるし、室内も温度も自在に調整でき、快適なのではないか。家族のライフサイクルや自分にあった家や部屋の広さを考える必要があると思う。
月: 2018年1月
日本人論について
昔読んだ日本人論について思い出した。その一つが「うちとそと」論。もう一つが自我構造論。
日本人にとっては、①うちとそとの境界がとても大事である。②うちとそととの境界は流動的である、③そとの人でも中の人の紹介があればうちに容易に入れるというものである。
西洋人は、個人主義で、個人と個人以外との境界がはっきりしていて、状況に応じた「うちとそと」の区別はしない、個人も大事だが、誰に対しても公平平等に扱い、贔屓はしない(普遍主義)。日本人はうちの人に対しては、特別の配慮をする。
夫婦の関係について、これを当てはめて考えると、日本人の場合、夫と妻でかなり意識が違うのではないかと思った。
夫(男)の方がうちとそと意識が強く、妻(女)の方はそれが弱い。妻の方が個人主義という傾向があり、それが原因で、夫婦間でかなり心の行き違いがあるのではないか。
日本人の夫は自分の妻を最もうちの人と思い大事にするが、同時に自分と同じなので気を遣わず、そとの他者に気を遣う。それに対して、うちとそととの意識の薄い妻からすると、夫の自分への気遣いの少なさを、(夫の「うち」意識の強さとは取らず)、自分への気遣いや愛情のなさと解釈する。「よその人(他者)に気を遣い、自分のことを気遣ってくれない(守ってくれない)愛情のない夫」というように。(夫は妻を自分に一番近い人と思っているのに)
もう一つは、自我構造の違い。
個人主義で、がっちりした自我の構造(殻)をもっていている西洋人(固い殻のついた生卵にたとえらる)。それに対して、個人主義が確立していなくて、状況に応じて自我がへこんだりでっぱったりする(ふにゃふにゃな)自我構造(殻をむいた半熟卵にたとえられる)の日本人。(『日本人=〈殻なし卵〉の自我像』 (講談社現代新書) – 1977/8 森常治 )
ただこれは日本の男性に多く、女性は少し違う。日本の女性は、本人は自立しているわけではないが、西洋の個人主義に憧れ、自我の確立した西洋人に魅かれる。(江藤淳が『成熟と喪失』の中で、小島信夫の『抱擁家族』の夫婦について述べていることは、これにあたる)
日本そして日本人もどんどん西洋化しており、日本人論のあてはまる部分が少なく、日本人論は廃れてしまっているが、少しは当てはまるところは残っているような気がする。
雑魚は雑魚取りに
吉本隆明の文章に、雑魚について書いたものがあったように思う(今手元に本はなく、確認できないが)。
その趣旨は、大きな目の網を持っている漁師が雑魚を狙っても雑魚が網の目の間から抜け出し獲れない。雑魚を獲できるのは、雑魚用の小さい目の網を持っている人に限るというものである。
漁師たるもの大きな魚を自分の荒い目の網で獲るべきで、雑魚など狙うべきではないというものだ。(ただ、大きな魚を獲る漁師と雑魚を獲る人に、優劣はない)
つまり、自分の専門外のことにむやみと口を出したり、頭を突っ込むことはしない方がいいという忠告である。
専門という隠れ蓑を使いそこに胡坐をかき外からの監視を拒むというのは、もちろんよくなく、部外者や素人が外部審査に入ることも時に必要だが、専門家はその分野に専念して長年やってきたものに、素人が軽い気持ちで参入しても、やはりかなわないのではないかと思う。これは政治や芸術の分野でもいえるのではないか。
東北人とは(水沼文平)
東北(仙台)在住の水沼文平さんから頂いた新年のメールを転載させていただく。
東北出身の偉人伊達政宗に言及し、「政宗は中央政権による仕打ち(屈辱)をバネに」「独眼というハンディを持ちながら」「天性の幸運に恵まれた人物だったようです」「武人というよりやさしい心を持った詩人としての正宗の実像が浮かび上がってきます」「東北の歴史や人物から「平和を願う心」や「不条理なものに対する反骨精神」「万民に対するやさしさ」などを学び取ることができます」という言葉が印象的。(武内)
明けましておめでとうございます。
ゴーギャンの絵画「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
ではありませんが、郷里に帰り1年半、「東北人とは」について考えてきました。
伊達政宗の「春雪」という詩があります。
餘寒無去發花遲(余寒去ること無く 花発くこと遅し)
春雪夜來欲積時(春雪 夜来 積もらんと欲する時)
信手猶斟三盞酒(手に信せて猶ほ斟む 三盞の酒)
醉中獨樂有誰知(酔中の独楽 誰有りてか知らん)
春というのに余寒が去らず、梅の開花も遅い
夜になって、ちょうど春の雪が積もろうとしているところだ
我が手にまかせて気の向くままに何杯も酒を酌む
この酔いのうちの独りだけの楽しみがわかるものが私以外に誰かいるだろうか
1627年の春、政宗60才、死ぬ6年前に仙台で詠んだ詩です。更けていく夜に降り積もる春の雪を眺めながら、手酌でひとり酒を楽しむ政宗。仙台の3月のドカ雪は子ども
の頃に経験しました。そして大人たちが「今年は豊年だ」と語り合っていたことを思
い出します。政宗は独りちびちびと酒を飲みながら、豊年をもたらす瑞祥として春の
雪を喜んでいたのでしょう。
政宗100万石の夢は秀吉の「奥州仕置」で潰され、家康の関ケ原の論功行賞で潰えま
した。しかし政宗は中央政権による仕打ち(屈辱)をバネに、氾濫を繰り返していた
北上川を改修、家臣団に新田開発を奨励、実質100万石以上の収穫を得るに至りまし
た。政宗は戦に関しては常に受け身で、決して戦の上手な武将ではなかったと言われ
ています。さらには危ういところで危機を脱しているケースが多く見られます。小田
原合戦の遅参、決死の死装束などはその典型です。独眼というハンディを持ちなが
ら、禅僧虎哉宗乙(こさいそういつ)という師、片倉小十郎や伊達成実などの部下に
恵まれ、その上に天性の幸運に恵まれた人物だったようです。
古代、大和朝廷は水田稲作を国家の基盤として北上を続けました。東北は縄文時代か
ら寒冷地に強い「焼畑(ヒエ、アワ、キビ、ソバ)」や「クリ・ブナの実」など、水
田稲作に依存する必要のない豊潤な土地でした。そして4500年も前に三内丸山のよう
な大きな集落を形成し「平和・平等・再生」を生き方のベースにしていました。
植民地化を図ろうとする朝廷に対して東北人=蝦夷(えみし)は、800年代の阿弖流
為(あてるい)、1100年代の安倍貞任などが敢然と戦いました。朝廷は東北人を「蝦
のようにちっぽけな東方の野蛮人」と蔑称していましたが、その蝦夷は「まつろわぬ
人々(朝廷の支配に抵抗し服属しない人々)」でした。政宗にも蝦夷の闘魂が宿って
いたに違いありません。
政宗に関して弟小次郎殺害の否定論や支倉常長長命論を考え合わせると武人というよ
りやさしい心を持った詩人としての正宗の実像が浮かび上がってきます。彼の国造り
の特徴である「要害より市民生活重視の町づくり」「侍と百姓を共に働かせた兵農一
致の村づくり」に見られるように彼の施政の根底には「万民に対するやさしさ」が
あったと思われます。(水沼文平)
戊辰戦争のあと、薩長土肥の新政府は「白河の関より北の土地は一山で百文にしかな
らない荒れ地ばかり」という侮蔑的な表現を取りました。これに抗して東北人の反骨
精神を表すフレーズとして「河北新報」の社名の由来となり、平民宰相・原敬の雅号
「一山」の由来ともなりました。
このように東北の歴史や人物から「平和を願う心」や「不条理なものに対する反骨精
神」「万民に対するやさしさ」などを学び取ることができます。 (水沼文平)