東北人とは(水沼文平)

東北(仙台)在住の水沼文平さんから頂いた新年のメールを転載させていただく。
東北出身の偉人伊達政宗に言及し、「政宗は中央政権による仕打ち(屈辱)をバネに」「独眼というハンディを持ちながら」「天性の幸運に恵まれた人物だったようです」「武人というよりやさしい心を持った詩人としての正宗の実像が浮かび上がってきます」「東北の歴史や人物から「平和を願う心」や「不条理なものに対する反骨精神」「万民に対するやさしさ」などを学び取ることができます」という言葉が印象的。(武内)

明けましておめでとうございます。
ゴーギャンの絵画「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」
ではありませんが、郷里に帰り1年半、「東北人とは」について考えてきました。

伊達政宗の「春雪」という詩があります。
餘寒無去發花遲(余寒去ること無く 花発くこと遅し)
春雪夜來欲積時(春雪 夜来 積もらんと欲する時)
信手猶斟三盞酒(手に信せて猶ほ斟む 三盞の酒)
醉中獨樂有誰知(酔中の独楽 誰有りてか知らん)

春というのに余寒が去らず、梅の開花も遅い
夜になって、ちょうど春の雪が積もろうとしているところだ
我が手にまかせて気の向くままに何杯も酒を酌む
この酔いのうちの独りだけの楽しみがわかるものが私以外に誰かいるだろうか

1627年の春、政宗60才、死ぬ6年前に仙台で詠んだ詩です。更けていく夜に降り積もる春の雪を眺めながら、手酌でひとり酒を楽しむ政宗。仙台の3月のドカ雪は子ども
の頃に経験しました。そして大人たちが「今年は豊年だ」と語り合っていたことを思
い出します。政宗は独りちびちびと酒を飲みながら、豊年をもたらす瑞祥として春の
雪を喜んでいたのでしょう。

政宗100万石の夢は秀吉の「奥州仕置」で潰され、家康の関ケ原の論功行賞で潰えま
した。しかし政宗は中央政権による仕打ち(屈辱)をバネに、氾濫を繰り返していた
北上川を改修、家臣団に新田開発を奨励、実質100万石以上の収穫を得るに至りまし
た。政宗は戦に関しては常に受け身で、決して戦の上手な武将ではなかったと言われ
ています。さらには危ういところで危機を脱しているケースが多く見られます。小田
原合戦の遅参、決死の死装束などはその典型です。独眼というハンディを持ちなが
ら、禅僧虎哉宗乙(こさいそういつ)という師、片倉小十郎や伊達成実などの部下に
恵まれ、その上に天性の幸運に恵まれた人物だったようです。

古代、大和朝廷は水田稲作を国家の基盤として北上を続けました。東北は縄文時代か
ら寒冷地に強い「焼畑(ヒエ、アワ、キビ、ソバ)」や「クリ・ブナの実」など、水
田稲作に依存する必要のない豊潤な土地でした。そして4500年も前に三内丸山のよう
な大きな集落を形成し「平和・平等・再生」を生き方のベースにしていました。

植民地化を図ろうとする朝廷に対して東北人=蝦夷(えみし)は、800年代の阿弖流
為(あてるい)、1100年代の安倍貞任などが敢然と戦いました。朝廷は東北人を「蝦
のようにちっぽけな東方の野蛮人」と蔑称していましたが、その蝦夷は「まつろわぬ
人々(朝廷の支配に抵抗し服属しない人々)」でした。政宗にも蝦夷の闘魂が宿って
いたに違いありません。

政宗に関して弟小次郎殺害の否定論や支倉常長長命論を考え合わせると武人というよ
りやさしい心を持った詩人としての正宗の実像が浮かび上がってきます。彼の国造り
の特徴である「要害より市民生活重視の町づくり」「侍と百姓を共に働かせた兵農一
致の村づくり」に見られるように彼の施政の根底には「万民に対するやさしさ」が
あったと思われます。(水沼文平)

戊辰戦争のあと、薩長土肥の新政府は「白河の関より北の土地は一山で百文にしかな
らない荒れ地ばかり」という侮蔑的な表現を取りました。これに抗して東北人の反骨
精神を表すフレーズとして「河北新報」の社名の由来となり、平民宰相・原敬の雅号
「一山」の由来ともなりました。

このように東北の歴史や人物から「平和を願う心」や「不条理なものに対する反骨精
神」「万民に対するやさしさ」などを学び取ることができます。  (水沼文平)