暇になると積読になっている本で、手近にある本を読むことになる。
言説研究ということが気になり、今津孝次郎・樋田大二郎編「教育言説をどう読むか」新曜社,1997年を読む。編者の今津孝次郎氏が、言説研究に関して、わかりやすい解説をしていて勉強になった。下記に、印象に残った文章をメモする。
・(教育論議が不毛なのは)、教育問題の立て方や論じ方に何か落とし穴があるためであろう。
・(小浜逸郎は)問題とされる教育事象そのものよりも、教育事象を問題として論じる論じ方に着目し、学校教育に関する論述を論じ方の観点から「教育言説」ないし「学校言説」として捉え検討している。(多くの教育論は)従来の暗黙の約束事や枠組みが崩れて大きく変化する学校や子どもの世界を何ひとつ有効に掴みえていない。
・ことばが多義的で曖昧なところがあり、どこか幻惑させられるような性格を帯びていて、そうした一定のことばや言語表現を呪文のように唱えると、そこでストップしてしまたり、さらに一歩踏み込んだ分析は退けられてしまう(新堀通也『「殺し文句」の研究』理想社、1985年参照)。
・「古いことば」に呪縛されがちな日常言語に対して、研究言語は「新しい概念装置」を提供できているはずである。ところが、研究言語自体が古い日常言語の枠を抜け出せていない場合がある。
・時代の転換期には、それまで自明とされてきた思考方法や価値判断が根本から見直されるとすれば、思考や価値尺度を表現してきた言語と言語表現をと問い直す作業を不可欠とする。したがって、「言説」を問題にすることは、私たちがものを相対化するというポストモダンの作業にも連なることになる。
本書は、序論に続き、教育に関する言説(子どもの個性、教育の多様性、学級の共同性、心の理解、不登校の克服、いじめの根絶、体罰)に疑いの目を注ぎ、批判的に検討している。
永井聖二氏は、本書に関して、「私自身は、既存の教育言説の拘束から解き放すものとして興味深く読んだものの、教育論を立て直していくための仕掛けとして位置づけることは難しかった」と評している(「子ども社会研究」第4号,1998年)
若者や子どもに関する言説に関しては、小谷敏氏編の刺激的な著作がいくつもある。(『若者論を読む』世界思想社1993年、『若者たちの変貌』世界思想社1998年、『子ども論を読む』世界思想社2003年、『21世紀の若者論』世界思想社2017年)