大学の軽音部の変化?

私たちの研究グループの大学生調査で、現代の学生が、一昔前に比べ素直で、真面目で、おとなしくなっているという「生徒化」の傾向を、大学生に対するアンケート調査から明らかにしてきた(下記に報告書の全文をアップしている)。
https://www.takeuchikiyoshi.com/wp-content/uploads/2011/12/24531072.pdf

そのような傾向が、大学生の部活動や趣味、とりわけ音楽活動にも表れているのであろうか。

関西の中堅の私立大学の教員のTさんより、軽音楽部の顧問になり、「学生のバンドのライブを聴きに行ったが、大音響のロックではなく、語りかけるような、心地よい曲や演奏が多かった。そのグループに大学研究者の懇親会の余興で聴いてもらったところ大変好評だった.大学の軽音は変わりつつあるのではないか」という話を聞いた。(下記で、その演奏の一部を聴くことができる)
https://1drv.ms/v/s!AjdNY-YphRxPgnSY9lZg_VXNspIV

私は、大学生の軽音はロックが中心で、とにかく音が大きい(耳栓をしないと聴いていられない)という印象を持っていたが*、それは間違い、あるいは変わりつつあるということであろうか。このような傾向は、どこの大学の軽音でもみられることなのか。上品な私立大学だけにみられる傾向なのか、これから調べてみたい。

(追記;Tさんより後日、下記のメールをいただいた。
武内先生のブログを見てのコメントを、部長からもらいました。「この軽音楽部は、学生向けのライブの他にも、イベントで演奏することがあるため、その場の雰囲気や聴いてくださる方の年齢層に合わせた演奏を心がけています。また、普段使わない楽器(フルートやクラリネット等)も取り入れやすい軽音楽部なので、アコースティックな曲が多いのかも知れません。」ということだそうです。私の方が大きく考えすぎたかもしれません。)

*上智大学時代のゼミ生で宮永次郎君といういつもギターをかかえている学生がいて、彼はwaterというバンドを組み、卒業後もプロとして活動し、私も四谷や渋谷のライブハウスに聴きに行ったことがあるが、上手な演奏なのだが、とにかく音が大きいのには閉口した。宮永君は、今は、有名なミュージッシャンになっている。

不本意入学について

 ほしかったものが手に入らなかった時、人はどうするのであろうか。その次にほしかったもので我慢するというのが普通であろう。
 結果的に、一番ほしかったものより、二番目にほしかったものの方がよかったということもあり、人生何が幸いするかわからない。
 またこれは認知不協和の回避(実際選択したものがベストと自然に考えてしまう)やゴフマンの「クーリングアウト」の過程(失敗をうまく受容し、静かにもとの生活に戻るように状況を定義する)やブルデューの「社会的老化」(緩慢な喪の作用)で説明されるのかもしれない。(竹内洋『立志・苦学・出世』講談社現代新書、1991年、p.156-7,参照)
ただ、最初にほしかったものにいつまでもこだわる人もいるだろう。手に入らなかっただけに、一層それがよいもの、価値のあるものに思え、それが手に入れられなかった自分に自信をなくし、以後積極的な生き方が出来なくなってしまう。

 高校選びや大学選びといった選択でも、このようなことが起きる。入試に失敗して、第1志望の高校や第1志望の大学に入れず、第2、第3志望の高校や大学に入学した場合、人はどのような気持ちで学校生活、大学生活を送るのであろうか。
 「第1志望でなかったけれど、入ってみたらとてもいいところ、自分に合っていた」と学校や大学に適応・満足を示すものが多いことは、統計的にも明らかになっているが。しかし、なかには第1志望にこだわり、不本意入学で、自信をなくし、悶々とするものもいる。
 これを人生の先輩から見たら、次のように感じる。

<今回の学校社会学研究会で、高校生の「不本意」に関する発表がありましたが、この言葉は敬愛大学の学生からも聞いていました。
 価値観の多様化によってさまざまな選択ができる世の中なのに、どうして第一志望に入れなったことに拘るのか、そんな時間があったら少年・少女は、何かに熱中して欲しいと思います。人生とは所詮「不本意の連続」なのですから・・・・。中学校高校時代に柔道に熱中していた自分をなつかしく思いだしています。>(水沼文平)

友人からの便り

友人の馬居政幸氏(静岡大学名誉教授、教育社会学)より、著書や最近の研究活動についてお知らせいただいた。

「拙著『変化する社会と生涯学習の課題』(NSK出版,2017)は、久しぶりの単著です。社会教育主事資格付与のための授業科目のテキストとして準備したものですが、学校教育、青少年文化、少子社会論などに考察の射程を広げました。8月から9月にかけて次の作業を進めています。
① NSK出版から『人口減少時代を活きる家族と学校の条件―生涯学習社会再構築のために』を発刊。人口減少下の日本の教育システム再構築への課題と処方箋提示に挑みます。
②日本教育社会学会69回大会での下記のテーマによる琉球大学の西本先生との共同発表の準備「沖縄における離島と本島間の学力格差~学力調査が及ぼした影響に焦点をあてて~」

馬居氏の活動は、「馬居教育調査研究所」のサイト(http://www.uer-labo.jp/)からもうかがい知れる。
大学教員は、定年後、このような活動ができるのだという、ひとつのモデルになると思う。

学校社会学研究会2日目終わる

2日間の学校社会学研究会で、いろいろ学び、考えることがたくさんあった。記録に残しておきたい。
1高等教育に関しては、進学率より総就学率が、国際比較では使われている。それは、高等教育段階の制度計画上の相当年齢人口(分母)と当該高等教育への全就学者数(分子)との比率である。100%を超える国(韓国)も、女子が男子を上回る国(アメリカ、オーストラリア他)もある。
2 中国では、戸籍がどこにあるか(都市か農村か)で、進学に有利不利が生じている。国が重点学校や重点大学の予算や人的資源を優遇しており、そこに入学しようとする受験競争が激化している。
3 次期学習指導要領の考え方の1つは、地域や社会に開かれた学校教育を目指している。その場合の地域は学区とは違い実際の生活が行われている地域(コミュニティ)である。そのモデルになるところがアメリカ(マディソン郊外)や日本にある。
4 多賀たかこ『ハイスクール落書き』(朝日新聞社、1986年)には、1980年代の教育困難な高校の抱える問題とそれに格闘した教師の実践が描写されている、そこで多賀が描いているエピソードは今日の大学が直面している問題が先取りされている、という報告があった。それに対して、同様のことは、外国でもあり、カルチュラル・スタディの起源は、大学が大衆化して、多様な学生が入学して来た時、ラディカルな教員たちがポピュラーカルチャを研究しはじめたことにある、という指摘があった。
5 国立大学の教員の研究費は、2012年と2016年で比較すると減少している(最頻値 30万円~50万円→10万円~30万円)。ただし、外部資金獲得額はあまり変化がない(12年も16年も最頻値100万円~300万)。でも私立大学より国立大学が魅力的なのは、何か理由がある。それは、学生の質の高さと数の少なさかもしれない。また地方の名士としての評判かもしれない。
7 学校の吹奏楽は、個人の自己主張より全体の調和が重んじられる。個性を全体と調和させることの中に、個性の発見や輝きも見られる。それは音楽ならではのことであるが、社会の中の人の生き方に関してもそれがいえる(?)。吹奏楽を描いた物語には、個人の成長が語られている。作品を分析する時、作者の意図と作品(テキスト)は、別物と考えるべき。分析の作品を選ぶとき、恣意的であってはならないが、分析者の理論的枠組みに沿ってのものであればよい。
8 校内暴力は、1980年代の日本の中等教育で頻発した。その現象の解明は興味深い。当時非行研究からその理由を考えることもかなりなされた。私はA.K.コーヘンの「非行下位文化論」(反動形成)がそれをよく説明できると考えていたが、それよりマッツァの「中和の技法」(『漂流する少年』)がそれをよく説明するという報告が山本氏よりあった。生徒の反抗・暴力は、教師に権威がなくなり尊敬されなくなったせいでもある。その原因は、仕事の通じて教える親方―徒弟関係が通じなくなった現代の教師の有り様にあるという宮沢康人氏の論が妥当と私は感じてきたが、生徒の中の消費者意識の浸透が大きいという説明があった。現代の教師のとるべき方策として、「中和の技法」に乗らない、「学校が社会からの委託事業であることを示す」などが、山本氏より提案されたが、私は、かって吉本隆明が壇上から降りて抗議者と殴り合ったように、教師が教壇から降りて生徒と対等に渡り合う方が、いいように思う。無意味な校則を守れという教師に従順に従うことは、社会に出て理不尽な法律に従順に従う態度を形成する(学校の潜在的カリキュラム)。これは消費者意識かもしれないが、今自分で納得できないことには従わないという態度も大事だと思う。 いろいろ議論できるテーマである。
9 18歳から選挙権が与えられるようになった時、学校教育でそれをどのように取り扱えばいいのか、大きな問題である。日本の学校では、政治的中立に敏感なあまり、実際の政党の候補者や選挙公約などを取り上げ議論することもタブー視されるが、これは外国の事例も見て、考え直した方がいいかもしれない。
10 アクティブラーニングの手法で、大学で実践した報告があったが、その手法を研究会でも使って説明する方法もありだ思った。

 その他、教えられたこと、考えさせられたことはたくさんあった。また、私が誤解したこと、聞き落とした重要なこともたくさんあると思う。ご指摘いただきたい。

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朝焼け

今日(25日)は、千葉では朝焼けがきれい。これで、雨の多かった夏が終わり、晴れの暑い夏が戻ってくるのかと思った。
ただ、ネットで調べると、朝焼けがあると天気が下り坂になるという説もあるという。どのような天気であれ、夏らしく、且つ涼しさや爽やかさも感じたい。

<夕焼けだと明日は晴れで、朝焼けだとその日の天気は下り坂だと言います。これは地球が自転していることに関係します。地球は自転しているため、上空にジェット気流という西から東に向いて吹く風が、いつも吹いています。そのため、基本的に天気は西から段々変わっていくのです。朝焼けの場合は、東の空が赤く色付きます。朝焼けが起きる時は、東の空には、雲が無いということです。しかし、西にある雲が段々と東にやってくるため、天気は下り坂になるのです。>http://yahuhichi.com/archives/3790.html

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