矛盾する両価性

画家のゴーギャンは、妻子を捨ててタヒチに行き、優れた絵を書いた(S.モーム『月と6ペンス』).
日本の有名な某作家は、放蕩を繰り返し、妻子を貧困の底に沈め,優れた小説を書いた。
優れた芸術を生むためには、それくらいのことは仕方がないのかなと思ったことはある。しかし、今日たまたま、有名な心理学者や政治家のことを書いた論文を読んで、これでいいのかとも思った。(読んだ論文は、下記)

やまだようこ「エリクソンの子どもたちと生成継続性」(『教育学年報8 子ども問題』2001年 世織書房、25-48頁)

ひとりは、あの有名な心理学者のエリクソンである。
「エリクソンは障害児として生まれたニールを、妻にも内緒で、生まれてからすぐに施設に入れた。(中略)エリクソンはニールが1965年に22歳で亡くなるまで1度も訪問せず、ニールが死亡したときも、彼に会おうとせず、葬儀も自分たちでしないで、電話で子どもたちに葬式をするように指示しただけであった」(28頁)、「子どもの精神治療の専門家で、ハーバード大学で多くの弟子を育て、親になることやケアの重要性を説いてきたエリクソンが、自分の子どもは見捨ててしまい、じゅうぶんにケアできなかたという事実を、どのように理解すればいいのであろうか」(30頁)

もうひとりは、エリクソンが自伝を書いた非暴力主義の運動家ガンジーである。
「ガンジーは公的には非暴力を公言しながら、身近なものには残酷で暴力的であった。妻に読み書きを無理強いし、青年が若い女性に魅力を感じないように女性の髪を切り、長男の(結婚に反対し)縁を切った」(41頁)

「矛盾する両価性の力、大きな野望と生身とのあいだに引き裂かれた乖離の嵐」(41頁)こそが、偉大な仕事を成し遂げたという指摘も、著者はしているが、そうなのであろうか。これまでエリクソンの理論にはあまり興味はなかったが、どのような人間性の乖離があのような有名な理論が出てくるのか、そのメカニズムを知りたいと思った。

大学の軽音部の変化?

私たちの研究グループの大学生調査で、現代の学生が、一昔前に比べ素直で、真面目で、おとなしくなっているという「生徒化」の傾向を、大学生に対するアンケート調査から明らかにしてきた(下記に報告書の全文をアップしている)。
https://www.takeuchikiyoshi.com/wp-content/uploads/2011/12/24531072.pdf

そのような傾向が、大学生の部活動や趣味、とりわけ音楽活動にも表れているのであろうか。

関西の中堅の私立大学の教員のTさんより、軽音楽部の顧問になり、「学生のバンドのライブを聴きに行ったが、大音響のロックではなく、語りかけるような、心地よい曲や演奏が多かった。そのグループに大学研究者の懇親会の余興で聴いてもらったところ大変好評だった.大学の軽音は変わりつつあるのではないか」という話を聞いた。(下記で、その演奏の一部を聴くことができる)
https://1drv.ms/v/s!AjdNY-YphRxPgnSY9lZg_VXNspIV

私は、大学生の軽音はロックが中心で、とにかく音が大きい(耳栓をしないと聴いていられない)という印象を持っていたが*、それは間違い、あるいは変わりつつあるということであろうか。このような傾向は、どこの大学の軽音でもみられることなのか。上品な私立大学だけにみられる傾向なのか、これから調べてみたい。

(追記;Tさんより後日、下記のメールをいただいた。
武内先生のブログを見てのコメントを、部長からもらいました。「この軽音楽部は、学生向けのライブの他にも、イベントで演奏することがあるため、その場の雰囲気や聴いてくださる方の年齢層に合わせた演奏を心がけています。また、普段使わない楽器(フルートやクラリネット等)も取り入れやすい軽音楽部なので、アコースティックな曲が多いのかも知れません。」ということだそうです。私の方が大きく考えすぎたかもしれません。)

*上智大学時代のゼミ生で宮永次郎君といういつもギターをかかえている学生がいて、彼はwaterというバンドを組み、卒業後もプロとして活動し、私も四谷や渋谷のライブハウスに聴きに行ったことがあるが、上手な演奏なのだが、とにかく音が大きいのには閉口した。宮永君は、今は、有名なミュージッシャンになっている。

不本意入学について

 ほしかったものが手に入らなかった時、人はどうするのであろうか。その次にほしかったもので我慢するというのが普通であろう。
 結果的に、一番ほしかったものより、二番目にほしかったものの方がよかったということもあり、人生何が幸いするかわからない。
 またこれは認知不協和の回避(実際選択したものがベストと自然に考えてしまう)やゴフマンの「クーリングアウト」の過程(失敗をうまく受容し、静かにもとの生活に戻るように状況を定義する)やブルデューの「社会的老化」(緩慢な喪の作用)で説明されるのかもしれない。(竹内洋『立志・苦学・出世』講談社現代新書、1991年、p.156-7,参照)
ただ、最初にほしかったものにいつまでもこだわる人もいるだろう。手に入らなかっただけに、一層それがよいもの、価値のあるものに思え、それが手に入れられなかった自分に自信をなくし、以後積極的な生き方が出来なくなってしまう。

 高校選びや大学選びといった選択でも、このようなことが起きる。入試に失敗して、第1志望の高校や第1志望の大学に入れず、第2、第3志望の高校や大学に入学した場合、人はどのような気持ちで学校生活、大学生活を送るのであろうか。
 「第1志望でなかったけれど、入ってみたらとてもいいところ、自分に合っていた」と学校や大学に適応・満足を示すものが多いことは、統計的にも明らかになっているが。しかし、なかには第1志望にこだわり、不本意入学で、自信をなくし、悶々とするものもいる。
 これを人生の先輩から見たら、次のように感じる。

<今回の学校社会学研究会で、高校生の「不本意」に関する発表がありましたが、この言葉は敬愛大学の学生からも聞いていました。
 価値観の多様化によってさまざまな選択ができる世の中なのに、どうして第一志望に入れなったことに拘るのか、そんな時間があったら少年・少女は、何かに熱中して欲しいと思います。人生とは所詮「不本意の連続」なのですから・・・・。中学校高校時代に柔道に熱中していた自分をなつかしく思いだしています。>(水沼文平)