レンタルフレンドについて(その2)

このブログにコメントを書き込むことはできるのだが、ほとんど返信はないので、私も気がつかないことが多い、今回1か月ほど前にきた質問があったことに、今日(5月5日)気がついた。それで慌てて返事を書いた(その一部転載)。

いただいた質問
<武内清先生 初めまして、私は韓国のX大学日本学科4年生のYと申します。現在日本と韓国の間の歴史や政治、社会文化などを勉強しております。私が書こうと計画している卒論の主題である「レンタルフレンド」に関しての先生のご意見を伺いたく、書かせていただきます。このサービスが出始めた社会的な背景が韓国の「代行サービス」と似ているところがあると気づき、これに関しての卒業論文を書いてみたいと思うようになりました。資料を探しているとき、この先生の研究室の分でレンタルフレンドに関しての言及(武内のブログの2014年5月31日)があったことを見つかり、もしできたら先生からこのサービスについてのご意見を伺いたと思いました。先生にお聞きしたいことは以下の点です。1.なぜこのような現象(レンタルフレンドの登場と需要)がおき始めたと考えなさいますか? 2.レンタルフレンドのサービスの出現は社会の流れとして自然なものであると思っていらっしゃいますか? 3.この現象について肯定的ですか?それとも否定的ですか? 4.この流れがずっと続くと思っていらっしゃいますか? 5.もし、この現象が続くとしたら、人間関係の価値は下がっていくと思われますか? 以上の5つのことがレンタルフレンドを調査しながら気になっていたところでございます。私的には、レンタルフレンドは経済活動や社会ろ活動により友達と会う時間が減少し、そして人間関係、特に友達という概念が薄くなった為、またいじめや引きこもりなどの社会・心理的な面で起きたとも思われます。さらにもう一人ではできないことを我慢せず、友達というポジションを誰でもいいという考えが広がり、人の時間を買うという経済的な面からもと思っております。しかしながらまだこれに関しての資料が少なかったこともあり、私の考えがある程度はあっているかどうかも確認が大変難しかったのです。それで、先生のご意見を伺ってもよろしいでしょうか。>

武内の返事
<いただいたメールに、今日まで気がつかず、ご返事せず、失礼しました。いただいた日本語の文章がとても立派なので、びっくりしました。
ご質問に、あまりきちんとしたお答えを書く自信がありません。その理由はいくつかあります。第1に、友人関係というものは、個人差も大きく、社会学的な一定のパターンを描くのがなかなか、難しいということ。友人関係に関するアンケート調査は、皆失敗していると言われます。社会学の友人関係を扱ったものでは、質的な研究の方が、説得力があるように思います。第2に、私のブログの記事は、NHKテレビの番組を見た個人的感想を書いただけで、それ以上の考察をしていません。
このブログの内容を日本の大学生に読ませると、多くの学生は、「友達というものはお金で買うものではない」と否定的な反応が大部分でした。私もその通りだと思うのですが、ただ、私が言いたかったことは、次のようなことです。
1 友達というものは、日本人にとって「安全と水はただ」と同じように、無料で得られるものと思っているが、実は、とても貴重なもので、それが得られない時は高額のお金を出して得る価値のあるものなのではないかということ。
2 「レンタルフレンド」は、ひとつ間違うと「買春(売春)」に行き兼ねない危ういところもあります。しかし、この番組で紹介されていた「レンタルフレンド」は、そのようなものを求めているのではなく、精神的な安らぎや充実感を求めています。物理的なもの以上に精神的なものというのは高い価値があり、それをお金に換算すると、高額になるということを示しています。
3 友達は一般には誰でも簡単に得られるものですが、世の中には、それが簡単に得られない境遇の人がいます。番組で紹介されていたのは、「オタクの青年」や、「高齢者の一人暮らしの男性」です。そのような人の立場に立って考えることも必要と思いました。
ご質問に的確にお答えできませんが、以上のように考えています。(以下略)

 

ハルキストについて

「ハルキスト」は、次のように定義される。
<ハルキストは、村上春樹(小説家)のファンの通称。ハルキストは、村上春樹の小説やエッセイから伺える村上の趣味や生活スタイルに影響を受けている場合がある(マラソン・水泳、映画、文学、音楽、料理、猫など)>(wikipedia)
村上春樹の趣味や生活スタイルまで好きになる人となると、数が限られてくると思うが、村上春樹の小説が好きで、自分はハルキストと思っている人は、かなりいるのではないか(それ以上に、村上春樹は嫌いという人も多いと思うが)。

村上春樹は、川上未映子との対談で、作家とファンの読者との関係を「信用取引」と言っている。(村上春樹・川上未映子『みみずくは黄昏に飛び立つ』新潮社、2017.4.25)

「一生懸命時間をかけて、丹精を込めて僕が書いたものです。決して変なものではありませんから、どうかこのまま受け取ってください」という作家の依頼を、「わかりました」と信頼して受け取る関係が成立していること(134頁)。これこそ、ファンであり、村上春樹の場合は、ハルキストになるのではないか。
この対談の中で、村上春樹が、イディアとかメタファーという『騎士団長殺し』の中でとても重要な言葉を、独自の(勝手な)定義で使っていることが明らかにしている。(155頁)。

『騎士団長殺し』の登場人物・免白さんが作家自身にも謎(ミステリヤス)の人であることが示されている(204頁)。
昔書いた小説を読み返さないということも明言している(村上春樹の過去の小説のことは、対談者の川上の方がよく知っていて、村上が尋ねている)。
村上春樹の小説には、死後の世界がよく出てくるが、本人は死後の世界や来世があるとは信じていないとのことの述べていて興味深い。
「僕は性格的に、何かを強く憎んだりとか、喧嘩をしたりとか、あまりしない人間なんです」「戦うという行為の中に、ニセモノの要素がどんどん混ざり込んでくるんです」(85 ~86頁)と、60年代末の学生運動を経験した村上春樹の姿勢が表明されている。
また、グールドのバッハの曲のピアノ演奏が、左右の手で全く独自に自己主張しているが、最終的に調和がとれるという村上の音楽解釈(それが村上の小説の手法にも取り入れられている)が披露さている(103頁)。

この本に関しては、川上の下記のコメントもある(朝日新聞デジタル5月25日より転載)
<村上さんは一貫して率直にあけっぴろげに、自身の創作について語っている。ここまで手の内を明かしていいのか、と思うほどに。 同じ書き手である川上さんの、作家としての自分をぶつけるような問いが、そんな率直さを引き出した面もあるだろう。「私が聞いて春樹さんが答える形だけど、やっぱり質問そのものに作家の自分が内包されてしまう」と川上さん。 「作家と作家が真剣に話すって、けっこう危険なんです。私には私の創作領域があり、春樹さんにももちろん巨大なものがあって、そこに潜っていくのはそんなに簡単なことじゃない」 でもきっと、自身にとって大切な仕事をしたという充実感があるのだろう。「二度としません、こんなのはもう絶対無理」。高揚の余韻を、うらはらな言葉に響かせた。>

このインタビューでは、村上春樹の「弱さ」や「いい加減さ」も披露されていて、それも含めて「信用できる人」だなと思い、好感を持っている私も、ハルキストの一人かもしれない。

 

 

同期から学ぶ

学部時代の同じ学科(教育社会学)の仲間と1年に1度集まる会が10年余り続いている。 昨日(5月2日)は、1年ぶりの再会で、今年はひとり欠けてしまったが、5人で集まり、皆で歴史を少し学び(江戸東京博物館を見学)、両国でちゃんこ鍋を囲んで、近況を報告し合い、いろいろな話をした。 一番驚いたのは、皆いろいろな本を読み、日本のこれからの行く末を考えていることである。教育書を読む人、 歴史書を読む人、哲学書の読む人と、人それぞれだが、国際情勢、日韓関係、日米関係、北朝鮮問題が、一番話題になった。 普通高齢者の世代が集まると、病気のこと、孫のこと、年金のことなどが話題になることが多いと聞くが、我々の場合、(私を除き)歴史好きな人が多く、歴史から考え、これからの社会や世界はこのようになっていくという話が中心になることが多い。私は同期の友人の話から多くを学んでいる。

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