教育を受ける側は、児童(小学校)、生徒(中学、高校)、学生(大学)と名称が違っているが、教える側の教員(教師)は、小中高大で何か違うのであろうか。
教員志望の学生は、教職を希望する理由に、いい教員との出会いをあげることが多い。大学の教職の授業で学生に「思い出の中の先生」という話をして、「自分は小中高といい先生に出会い大きな影響を受けたけれど、それで教員になろうと思ったわけではない」という話をしたところ、「ではなぜ先生は(大学の)教員になったのですか?」と質問される。その場合、学生は大学教師も小中高の教員と変わらないという意識で質問してくる。
確かに学生からみると小中高の教員も大学の教員も授業をやる人として変わらないのであろうし、また昨今の大学の改革や大学の雰囲気が研究から教育重視に傾いているので、小中高と大学の教師の違いはない、と感じられて当然なところがある。
潮木守一教授の『キャンパスの生態誌』(中公新書,昭和61年)の中に、大学の3類型が鮮やかに描かれている。それで言えば、知識や技術を教える「自動車学校型」や、生き方を説く「予言共同体型」の大学であれば、小中高と変わらないであろうが、研究中心の「知的コンミューン型」の大学こそ大学らしいとなると、そこの教師は小中高の教師とは違うのではないか。
大学の教師は教育だけでなく、研究もしているということを、今の学生は知らないのではないかと感じることがある。これは学生だけでなく、一般の人も、文部官僚も、果ては大学教員自身も忘れかけているように思う(自戒も込めて)。