ミステリー(推理小説)のリテラシーについて

マンガにリテラシー(解読能力)があるように、ミステリー(推理小説)にも、リテラシーがあるようだ。
少し前、R.チャンドラー(村上春樹訳)「ロング・グッドバイ」を途中で読むのを放棄し、今回は(水沼さんお薦めの)D.フリ―ドマン(野口百合子訳)「もう年はとれない」を何とか終わりまで読んだがかなり難儀した(後半は、面白くスピードアップしたが)
私はこれまで、ミステリーをほとんど読んだことがない。わずかに関連するものとして、エドガー・アラン・ポー、江戸川乱歩、松本清張のものを少し、読んだことがあるくらいだ。
今回のように、外国の長編のミステリーを読むのは、(翻訳でも)初めてで、登場人物の名前が覚えられず、人間関係がぐちゃぐちゃで、訳が分からなくなる。
それに、文字(文章)による心理描写が、どれが正しく、どれが間違い(うがちすぎ)なのかが、全くわからない。ミステリーでも映画やテレビの映像であれば、誰かがすぐ区別できるし、その登場人物の心理は表情(映像)に表れるのでで、解読可能である。
何か、ミステリー小説解読には、高度なリテラシーが必要のようだ。

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上記に関して、水沼さんから、下記のコメントをいただいた。

<推理小説はなんらかの事件・犯罪の発生とその解決へ向けての経過を描くものですが、作者が仕掛けた「罠」を推理しながら読むのですから確かに「慣れ」が必要です。私が最も好きな推理小説はジョルジュ・シムノンの「メグレ警視」ですが、ミステリーというよりは純文学だと思っています。それにしてもソフィーの目つきがフィリップ・マーロウになっていますね。>(水沼)

蜘蛛

蜘蛛は人にあまり歓迎されない昆虫(?)のような気がする。
ただ、自分の小学生時代を思い出すと、庭で蜘蛛を飼っていたことがある。蜘蛛(兵隊蜘蛛と言っていたような気がする)を捕獲して庭に離しておくと大きな巣をつくる。そこに時々、トンボを捕まえては餌にあげていた。今考えるとなんて残酷なことをしたのかと悔やまれる。
軒下の地面に蜘蛛が巣を作っているのをそっと抜き出し、蜘蛛を捕まえ遊ぶようなこともよくした。昔は、テレビもゲームもなく、よほど暇だったのであろう。
最近、うちの庭の軒下と楓の木の間(間は3メートル以上ある)に、女郎蜘蛛が大きな巣を作っている(高さは3メートル以上ある。)。どうして、こんなに高く、しかも間があいているところに蜘蛛の巣を作れるのか不思議に思った。
家人の話では、軒下(あるいは楓の幹)にいて,風の強い時に、蜘蛛の糸を出しながら飛び、楓(あるいは軒下)の幹に飛び移るのだという。蜘蛛も粋なことをする。
(蜘蛛の種類に関しては、http://outdoor.ymnext.com/inform-02.html)

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世の中を明るくするもの2

近所を散歩していてほほえましくなるものとして、前にも書いたが、可愛い子猫や年老いた犬の頑張りがある。(下記の写真の子猫は今貰い手を探している)
また植物では、季節外れの(遅咲きの)花も心を打つ。10月も半ばの今の季節に、けなげに咲いている朝顔がある。(下記の朝顔の種はお分けすることができる)
「個性化の時代。皆と同じでなくて、それぞれの生き方があっていいんだよ」と言ってあげたい。。

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歴史を楽しむ

歴史的な教養があると、地域の中で楽しみが増える。仙台に帰郷された水沼さんより、下記のメールをいただいた。

郷里に戻ったことを機会に郷土が生んだ偉人の足跡を辿ることにしました。
最初に慶長遣欧使節の支倉常長の墓と彼が育った城跡がある柴田郡川崎町支倉を訪ねました。仙台駅の南西25キロ、車で40分ほどの所です。
常長は米沢で生まれましたが支倉家(1200石)の養子になり支倉にある「上楯城(か
みだてじょう)」で育ちました。
常長は正宗の命令で1613年イスパニアとローマを訪問する旅に出ますが、8年後の
1620年帰国した時日本は鎖国令・キリスト教弾圧の厳しい状況にありました。
常長には三つの墓があります。この円福寺と仙台市北山の光明寺、黒川郡大郷町東成
田(仙台駅の北25キロ、車で40分)の三か所です。
円福寺と光明寺は享年52才、大里町の墓は享年84才となっています。
史家によると、正宗は帰ってきた常長をキリシタンとして殺すわけにもいかず、幕府
には病死として届け、草深い大里町に隠し、常長は長寿を全うしたということです。
北山の光明寺にある常長の墓は子どもの頃から知っていましたが、次回は大郷町の
「支倉常長メモリアルパーク」を訪問する予定です。(水沼文平)

時間の逆転

2つのことが関連がある場合、どちらが原因でどちらが結果であるかを判定することは科学にとって重要である。
高根正昭の『創造の方法学』(講談社現代新書、1979年)でも、因果法則を満たす3条件のうちの1つに「時間の順序」をあげている(残りの2つは、「共変」と「第3の要因の不変」)。時間的に先に起こった方が原因で、後で起こったことが結果であり、その逆では決してない。
そのことは、自然科学のみならず社会科学でもいえて、どんな複雑な事象でも、時間の順序を考えると、因果関係がはっきりする場合がある。
その「時間の順序」というのは社会的事象の因果関係を考える時の基本と思いながらも、先に紹介した(7月24日)、さだまさしの「いのちの理由」の歌を聴くと、納得してしまう部分がある。

私が生まれてきた訳は 愛しいあなたに出会うため。
私が生まれてきた訳は 愛しいあなたを護るため。

「自分が生まれ」(→「愛する人に出会い」)→「生まれきた子ども(あなた)を護る」というのは、この順が時間的な順序である(原因は時間的に前のことがらで、結果は後のことがら)にもかかわらず、「自分が生まれてきた」のは「あなたを護るため」と、歌っている。つまり、原因(目的)が「あなたを護るため」であり、その結果「自分が生まれた」と、時間の順序を逆転させている。そこがこの歌の歌詞の面白く、人を感動させるところなのであろう。