学びの共同体

戦後大学に講座ができた「教育社会学」は、既存の教育学があまり扱っていない学校教育の周辺のこと(地域社会や階層)を主に扱ってきたので、学校教育の中核部分であるカリキュラム(教育内容)や教育方法に関しては疎い(苦手)ところがある。
しかし教育社会学が学問として確立し世間でも認められるようになった今、教育社会学も学校教育の中核部分に切り込むことも必要である。(先に学校社会学研究会で報告のあった名越氏はじめ、何人かの教育社会学者は、それをはじめている)
さしあたり、私は教育学で定評のある本を読むことからはじめよう。たまたま手元にあった佐藤学『教師たちの挑戦―授業を創る、学びが変わる』(小学館、2003年)を読んでみる。佐藤教授はとても含蓄のあることを書かれている。そのいくつかを抜き出してみよう。

「静かな革命は、学びの様式においては、座学の学びから活動的な学びへ、個人的な学びから共同的な学びへ、獲得し記憶し定着する学びから探求し反省し表現する学びへの転換として表現され、授業の様式においては、伝達し説明し評価する授業から触発し交流し共有する授業への転換として表現される」(7頁)
「学びとはテキスト(対象世界)との出会いと対話とであり、教室の仲間との出会いと対話であり、自己との対話の3つで対話的実践によって構成されるのであり、「活動的で協同的で反省的な学び」として遂行される。」(13頁)
「ほとんどの教師が魅了されている授業は、しっとりとした関わりの中でつぶやきや声を聴き合い、一人ひとりの細やかな思考をていねいに擦り合わせる授業である。これまで喝采を浴びてきた授業が、にぎやかな劇的な動きのある派手な授業であったのに対して、今の教師たちの心を捉えているのは、繊細な響き合いによってていねいに進められる、静かで地味な授業である」(29頁)
「授業を創造する教師の力量において、専門的な知識や授業の経験はその3割に過ぎない。残りの7割は、子ども一人ひとりの思考や感情をどれだけ尊重し、一人ひとりの子どもの隠れた可能性をどれだけ引き出せるかにある」(62頁)
「子どもが求めているのは、落ち着いて学び、安心して自分の可能性を開くことのできる教室である」(45頁)(『教師たちの挑戦―授業を創る、学びが変わる』(小学館、2003年)

この本は13年前に出版されていて、アクティブ ラーニングという言葉は出てこないが、内容的には、アクティブ ラーニングへの転換が提唱されている。
佐藤教授は、派手に活動する授業ではなく、静かに深く学ぶ授業を提唱している。本の中に「響き合う」「柔らかな」「しっとり」という言葉が、頻繁に出てくる。佐藤教授の「学びの共同体」論は、机上のものではなく、教授が1万近い教室を訪問・観察して出てきたもので、説得力を持つ。
教育社会学の立場からすると、データの裏付けやその論の社会的意味もほしいと感じた。教師の属性による教育方法の違い、教師の教育実践と子ども反応との関係、時代的背景と教育に対する社会的要請など。
2016年の今は、教育学ではどのような学びが必要なものと提唱されているのであろうか。教育社会学の立場から、批判的にも考えていきたい。

リメディアル教育に関する議論(その3)

京都三大学教養教育研究・推進機構の児玉英明さんより、先の小島さんの意見に対して、ご意見をいただいた。児玉さんのリメディアル教育学会の発表レジメ(添付)を添えて、転載させていただく。

<小島先生は「私もリメディアル教育には賛成ですが、個別的には大学教員も取り組んでいると思います。すわわち、学生のレベルに合わせて教え、単位を出しているということです。それを組織的にやるかどうかということは、大学のプライドもあり、コンセンサスを得るのは難しいと思います。」と述べています。この記述にリメディアル教育の根本的な問題があります。つまり、大学には「個別的に」取り組んでいる教員はいても、「組織的に」取り組んでいる大学はないという点です。どこまで行っても、個人的な取組であり、それ故に教員によって対応が分かれ、学生が不利益を被っている可能性があります。教職員一人ひとりのレベルでは、基礎学力に不安を抱える学生の学習支援に関心を持っている者は多いです。しかし、それが組織的な議論に発展するかというと学内ではなかなか難しいという現状があります。このようなディレンマは、なぜ発生するのでしょうか。私がまとめた論考を添付します。(児玉英明)>

2015リメディアル教育学会(児玉英明)

 

リメディアル教育に関する議論(その2-小島・鷲北往復書簡?)

私のこのサイトで、いろいろ議論ができるのは、楽しい。
先の鷲北さんと私、そして小島さんのリメディアル教育に関する討論を読んで、「なかなか興味深い」という感想を読んだ方からいただいている。
さらに、本日(6日)小島さんの論へ鷲北さんよりコメントをいただいた。一部を抜粋して掲載させていただく。

鷲北さんからのコメント(9月6日)
まず一点目です
<私もリメディアル教育には賛成ですが、個別的には大学教員も取り組んでいると思います。すわわち、学生のレベルに合わせて教え、単位を出しているということです>(小島)。
●本当に学生が分かる講義をして、その上で学生と向き合って単位を付与されている場合は良いのです。これは、L大学で多々あったのですが、授業は上位者だけがわかればいいわかんないやつは出席足りていれば単位は出すから、黙って座っていろ。というタイプの先生です。これはS大学でも、みられます。学生と向き合っているという先生ばかりでなく、学生を見下して適当に単位出すタイプの先生を、私は問題にしています。どんなに難しい学問も、基本の上に成り立っています。公文式ドリルや、中学校のものをやることがリメディアル教育なのではなく、自分の専門を理解してもらうために、彼らがつまずいているところまで遡って引き上げてあげる教育。こう考えています。
過去にL大の法律科目で、「公共の福祉が何回読んでも分からない」といった学生がいました。法律の先生は「公共の福祉は公共の福祉以外の何物でもない」と言って、相手にしてくれません。私は、その学生には「みんな好きな事はやっていいという権利は持っているわけよ、だけどさ、みんなが静かに勉強したいと思っている図書館で、「俺は叫びたい、叫ぶのが自由権だああ」と言って叫んだら、周りに迷惑かけるでしょ? ぶっちゃけて言うと<公共の福祉に反さない限り>というのは<人様に迷惑をかけない限り>って感覚に近いわけよ。」このような説明をしたら、よく分かったと言ってくれました。小学生でも、分かるような説明をしてあげること。これが要求されると思います。
二点目
<リメディアル教育の対象となる学生は、基礎学力がないために、そもそも勉学に対する意欲が低い。したがって、教育資源の投資に見合う教育 効果がだせない。>(小島)
●教育資源の投資=上位校の大学教育の水準、と考えるとご指摘の通りだと思います。
しかし、下位の大学の学生は義務教育レベルの水準にさえ到達しておりません。その学生たちに、最低限の学力と、思考力をつけて世に送り出してあげる。これは、下位大学の投資に見合う効果です。分からないまま放置する、学生責任で退学に追い込む、こちらのほうが、よほど不経済と考えています。
三点目
<こうした学生はしばしば経済的な困難を抱えており、アルバイトなどをしないと生活ができないため、勉学に集中できない。教科書や参考書なども 気楽に購入できない、などの問題があります。>(小島)
●これは、T大ではあてはまりますが、下位の現場で言えば、家は裕福、金には困ってない。だけど勉強嫌い、やる気無い。といった学生層が一定数います。親に資源があっても、子どもがその気にならないというやつです。私自身が、落ちこぼれていた時は、このタイプでした。
最後に
<大学の教員の側の問題としては、以下のようなことがあると思います。大学の教員のプライドがこうした教育をやるのを阻止する。>(小島)
●この点は、そんなプライド捨ててしまえ、目の前の学生に向き合えない教師としてのプライドはないのか?と、問いたいです。研究志向なら上位の大学や研究機関に就職すれば良かったわけで、それが出来ずに下位の大学にいるなら考え方を変えていただきたい。
<現実問題として、研究業績が重視される。>(小島)
●ここが最大のポイントになるのでしょう。大学はもう多様化していて、研究者として優秀であることが、学生に還元できない環境もあるのです。実感としては、半数の大学がそうでしょう。学生に対して、どのように自分の研究が還元できうるのか、下位の大学はこれを研究テーマにしても良いのでは。研究職教員、教育職教員と、明確に分けても良いのかもしれません。数学を専門としていない私ですが、数学科目の私の授業アンケートは上位です。このレベルの大学では<数学研究者として優れていること>よりも<数学が分からない学生が、分かる授業をすること>こちらのスキルが求められているのがリアルです。
児玉先生は、また違った考え方かもしれません。ただL大学という職場で共に闘ってきたので、共通認識は持っております。小島先生のように、理解ある教育研究者が、増えていくことを願っております。(鷲北貴史)

WISCONSIN・マディソンについて

日本ではあまり知られていないが、実際現地に行ってみるととても美しく住みやすい街で、1年くらいの短期の滞在でも思い出に残るところがある。
私は20年ほど前に1年間家族で過ごしたWISCONSIN州の州都のマディソンという町は、人口20万人ほどで、そのうち大学関係者(学生も含む)が4万人近くいて、大学は湖の湖畔にあり風光明媚で、人々は親切で、一度そこで過ごした人は、マディソンを忘れられず、連帯感を感じ、日本人会を作ったりしている(http://madisonjapan.web.fc2.com/)
その日本人会のユースレターからの最近の便りを転載しておく。(知人の大倉さんの名前もみられる)
<WAAJ会員の皆様へ
今週の土曜日と日曜日に東京、名古屋、大阪でアメリカ大使館主催のEducation USAが開催されます。ウイスコンシン大学はブースをだしますので、みなさん、子供さんやお孫さんで留学を考えている方が見えましたら、告知お願いします。以下の担当者がブースで対応します。遊びに来てください。ボランティアも募集しています。
東京(9月10日)成田滋、谷本直、藤井将象、上野和俊
http://americaexpo.jp/
名古屋(9月11日)伊藤博文、上野和俊
https://americancenterjapan.com/event/201609114289/
大阪(9月11日)成田滋、大倉健太郎
https://americancenterjapan.com/event/201609114261/
福岡(9月17日)Elaine Egarashi (ブースはありません)
https://americancenterjapan.com/event/201609174301/>

学校の部活動について

首都大学東京の西島央氏より、ご自身も一章原稿を書いている『運動部活動の理論と実践』(友添秀則編、大修館書店、2016年7月)を送っていただいた。
今、教員の多忙化軽減や「チームとしての学校」などとの関連で話題になっている部活
動の指導に関して網羅的に論じた本であり、部活動に関していろいろ考えさせられた。
西島さんには、『子どもと学校』(武内編、学文社、2010年)の中でも、部活動に関していい論稿を書いていただいたことがあり、この本の中でも、教育社会学の立場から、調査データにもとづき、示唆的な視点を提示している。
学校の部活動は「居場所として」(学童保育、趣味縁など)、「スポーツ・芸術活動を享受する社会的機会の平等化」などの機能を果たしているという。
部活動のこれからのあり方に関しても西島氏は具体的な提言をしているが、教育社会学の立場から、実践的な問題や政策的な課題に切り込むことの難しさも感じた。

西島央さんより、下記のコメントもいただいている.

<お送りしました本は、運動部に限られてはいますが、運動部活動に関して、さまざまな角度から学術的・実践的に論じた、初めての体系的な研究書だと思います。
編者の友添先生は、筑波のご出身で、専門はスポーツ倫理学で、早稲田のスポーツ科学部の学部長をお務めで、国のスポーツ政策や体育政策に関わる審議会などには、スポーツに関する文系の学者の第一人者として参加なさっています。
スポーツに関する研究は、筑波、早稲田、日体大、そして東大などで盛んに行われていますが、学校教育における部活動の実証研究をずっとしているのは私達の研究会くらいしかないのではないでしょうか。
部活動について問題を抱えているのは運動部だけではありません。文化部についても、とくに音楽系を中心に、運動部並みの活動をしているところや、反対に、指導者がいないところ、なぜか生徒会が文化部と並列になっているところなどもあり、きちんとした検証が必要だと思っています。
私は、首都大や東大などの講義で、定点観測的にほぼ同じレポート課題を出して、自分の関心のあるテーマについて、データを挙げて論じさせているのですが、部活動をテーマにとりあげる場合、去年までなら、ほとんどが部活と勉強の両立という生徒側の問題で、しかも、その多くが、部活肯定論でした。ところが、今年になって、大半が、教師の多忙化要因論で、部活に対して否定的な見解を示すものになりました。去年までの大学生の中高時代には問題がなく、今年の学生から問題が突然生じたはずもなく、まるで流感にかかったかのように一気に社会問題化し、それを鵜呑みにしている状況には、全体主義的な怖さを感じます。
実際には、むしろ2000年代初め頃までより、部活動の活動時間は短めになり、先生方をサポートするしくみもできてきていて、今指摘されている問題は改善されているというのが、長く研究をして現場に接していて感じている実感です。
そうであれば、社会問題となっていることは流感のようなもので、みんな問題視しているが、実際はこうだということを冷静にデータに基づいて指摘する必要があるとも思います。ご指摘の、教育社会学が実践や政策にどう関われるかは、教職課程から外されたことも含めて、学会を挙げて真剣に取り組まねばならない課題だと思います。
教育社会学の多くの方々、重要な教育問題に取り組んでいらっしゃいますが、文科省の政策や学校現場に活かされていないとしたら、(活かすという意味は、政策や実践を支えるだけでなく、批判することも含まれます) 学問の存立基盤の一部に関わる大問題だと思います。教育社会学のスタンスの取り方というのは、とても難しいものだと、痛感しています。>