敬老の日に思う2―社会の高齢化

教育社会学会の大会に出て、600人もいる参加者の中で、自分は年齢の上から数えて1ケタの中に入るのではないかと思い愕然とした。私より年齢の上の人は、牧野暢男氏、有本章氏、竹内洋氏くらいで、同年齢同学年では住田正樹氏、矢野真和氏、久富善之氏を見かけたくらいである。とにかく70歳台はほとんどいない。それに、大学を退職した65歳以上の人も少なかったと思う。
学会は最先端の研究を発表し、新しい情報を入手する場と考えれば、研究や教育の第1線から引退した人にとって無益の場であることは確かで、65歳以上の人がいないのも当然であろう。それに年寄りがうろうろして口を挟まれては、学会を担う中堅にとって煙たくて仕方がない。
でも、今の日本の社会は65歳以上の高齢者人口が27.3%いる高齢化社会である。学会は、高齢者の生きがいや暇つぶしの場としての機能も、少しはもってもいいように思う。
学会の会費や大会の参加には、若者(院生)割引があるが、高齢者にも「高齢者割引」を作る必要があるように思う(大学の専任教員(中堅が多い)には年会費や旅費や学会参加費は大学の研究費から支給されるが、それ以外の人は自弁での参加になるのでかなりの負担になる)。

日本社会の高齢化(朝日新聞、2016年9月19日、朝刊より転載)
<65歳以上の高齢者人口(15日現在)は推計で3461万人で、総人口に占める割合が27・3%にのぼった。前年から73万人、0・6ポイント増え、いずれも過去最高を記録した。女性の65歳以上の割合は初めて3割を超えた。総務省が19日の「敬老の日」に合わせて発表した。
2015年国勢調査の速報値をもとに推計した。65歳以上の男性は1499万人(男性人口の24・3%)、女性は1962万人(女性人口の30・1%)。年齢別では、70歳以上が2437万人(総人口の19・2%)、75歳以上が1697万人(同13・4%)、80歳以上が1045万人(同8・2%)だった。
国立社会保障・人口問題研究所のこれまでの推計では、65歳以上の高齢者が総人口の3割を超えるのは8年後の24年とされている。少子高齢化が進むなかで働く高齢者も増えており、同省の労働力調査によると、昨年は過去最高の730万人。このうち65~69歳の就業率は、男性が52・2%、女性が31・6%だった。>

敬老の日に思う

今日(19日)の朝日新聞の天声人語は、敬老の日にちなんで、日本と韓国の2組の老夫婦の美しくも哀しい物語(ドキュメンタリ―映画)の紹介であった。(以下、一部転載)

<「ふたりの桃源郷」―「残りの人生はあの山で暮らそう」と決意する。終戦直後にふたりで開墾した思い出の地へ移る▼韓国映画「あなた、その川を渡らないで」―98歳の夫と89歳の妻がおそろいの韓服で仲よく暮らす姿は、「誰もがこうありたいと願う純愛物語」。▼2作品とも自分を重ねずには見られない。映画館で鑑賞しながら、闘病中のわが両親のこの先を考え、亡くなった祖父母の晩年を思い出した。それにしても、90代を迎えて支え合う夫婦は、国境を超えて美しい。桃源郷とは場所ではなく心の中にあるものと改めて学んだ。>

この天声人語を読んで2つのことを思った。ひとつは、歳を重ねてから夫婦の仲のよさについてである。これは難しいことなのか容易なことなのかわからないが、ほほえましいと思った。。吉田拓郎が、今の自分の最大の趣味(大好き)は妻(森下愛子)で、妻も自分に対してそうだどこかで言っていると聞き、ほほえましく思ったのを、思い出した。
もう一つは、私なら、映画を観て「闘病中のわが両親のこの先を考え」る時間的余裕があるのなら、両親のもとに少しでも長くいてあげるのにと感じた。(そんなことをしたらこのコラムは書けなかったし、それぞれの家庭に事情があることかもしれないが)。

学会発表について

学会発表では、自分の持ち時間が20分程度与えられるが、これは短いようで、かなり長い(すごいことの)ように思う。
学会は、その分野の最先端が報告されるのが通常で、その部会の参加者(聞き手)は、その分野の専門家が集まる。その専門の研究者の前で、20分も報告できるのは発表者の特権である。
聞き手は質問時間10分の中のわずかな時間をもらって質問したり意見を述べ
たりできるだけである。たとえ発表者が若い院生で、質問者(聞き手)が有名な教授であっても、発表者は20分、質問者は1~2分という発言時間のルールは守られる。
今回、教育社会学会で若い人の発表に、その分野の有名な学者(教授)が質問と意見を述べる場面をみて、上記のことを強く感じた。学会発表の特権と学会発表の貴重さを強く感じた次第。

日本教育社会学会第68回大会に参加

日本教育社会学会第68回大会が、9月17日(土)〜18日(日)に、名古屋大学で開かれそれに参加し、多くの発表を聞き、知り合いや友人にも会い、有意義な3日間であった。大会校開催校の伊藤彰浩教授、渡邊雅子教授らスタッフの行き届いた配慮と学生諸君のテキパキとした働きで、とても快適な学会であった。
発表者は180人を超えて、興味深い発表が多く(浜島幸司氏の大学生の社会意識に関する丁寧なデータ分析の発表もあった)。教育社会学研究の勢いを感じた。全体の参加者は600名を超えていたようだが、70歳以上は私も含め10名もいないのではないかと思え、その点さびしい限りであった。
泊まったホテルも快適で、夜は17日の名古屋大学食堂での懇親会の他、16日には竹内洋氏(京大名誉教授)や岩井八郎氏(京大教授)らともはじめて一緒にビールを飲み、いろいろな話ができた。

いくつか、学んだこと(記憶に残っていること)を記しておきたい。

1 日本におけるニューカマー研究は、欧米のニューカマー研究の研究枠組みをそのまま借りてきているところもあるが(それが不徹底という説もある)、日本の場合、欧米諸国とは社会的状況も違い(たとえば、ニューカマーは日本語と母語だけでなく英語も学ぶ必要がある等)、その日本的事情も十分考慮する必要がある。ニューカマー2世の研究から新たに見えてくることもある。
2 サポート校は、生徒の出入りが激しく、その生徒文化は固定的な学級に所属する従来の学校の生徒文化とは違った、新しいタイプの生徒文化が形成されている。
3 私立の通信制高校は、不登校の生徒の受け皿としての役割を果たし、高校教育を補填するという側面をもつが、そのカリキュラムは生徒寄りのもの(アニメやダンス等)もあり、授業料は高額で、「貧困ビジネス」という側面もあり、注意が必要である。
4 学校におけるいじめの責任(帰属)については、社会(特にメディアが作るモラルパニック的誇張が強い)、司法(独立の立場に立つが、段々社会に近づいている)、そして学校(教師の教育的配慮、実践)の3つがある。それに、「第3者委員会」が加わる。それらの間にはズレがあり、学校は他のセクターの動きに翻弄される。段々、教育(学校)の論理は無化される方向に向かいつつある。

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中秋の名月

今日(15日)、中秋の名月。
日本人にとって、月は特別の存在なのか。天声人語に次のような記述がある。
<こよいは旧暦の8月15日、中秋の名月である。残念なことに雨や曇りで見えづらい地域が多そうだが、日本海側などでは静かに光る姿がおがめるかもしれない▼北海道で教鞭(きょうべん)を執ったロシアの民俗学者ネフスキーは日本や中国の詩に、月のモチーフが多いことに驚いたという。日本人にとっての月とは「世の中の歓楽喜悦は永劫(えいごう)のものでなく、何時か最後が訪れる」ことを感じさせるものだと説いた(『月と不死』)。現実を超える魔力があるのだろう▼〈来世と過去世を宙に綯(な)い交ぜて圧し光(て)るものを月と謂(い)うべし〉秋葉静枝。日常の慌ただしさに、心が張る。そんなときは月を探してみるのも一興であろう。>(朝日新聞、2016年9月15日朝刊)。

雲の隙間から、少しどんよりとした満月。ススキも御団子もなく、ソフィー(犬)と一緒にみる。

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