この何回か、学校社会学研究会では、鷲北貴史氏と児玉英明氏が、リメディアル教育に関して現場の体験から話をしてくれて、その話は刺激的であり、考えさせられることが多い。
大学教師の多くが、自分の育ったエリート大学の大学論、教育論から抜け出せず、現実のユニバーサル化した学生の実態を見ることができず、見当外れの論や責任転嫁をしていることがわかる。政府の高等政策もマスコミの大学論や学生論も、また教育社会学者の大学論も同じような過ちに陥っているという。
(教育社会学者のリメディアル教育に関する論に問題がある、という両氏の指摘に関しては、別の機会に意見を述べたい)
今回の発表レジメに書かれた指摘は、もっともなものばかりである。
1 単位の出ないリメディアル教育に低意欲・低学力の学生は参加しない→変えるべきは正課授業。
2 初等・中等教育の内容をレベルが低いものとみるのではなく、むしろ万人が学習すべき本質的なものとして捉え直す.→具体的な教育実践の提示。
3 高校では「エンパワーメントスクール」のようなリメディアル高校が肯定されて、なぜ大学では「エンパワーメント大学・科目(リメディアル大学)が肯定されないのか?→高校教員に中に潜在的な理解者が多い。
4 目の前の学生に向き合い、一人ひとりの学生のつまずいているところから教える教員をなぜ叩くのか?→何のための教育学か?
鷲北氏や児玉氏が、書かれた論文も示唆に富むものが多くある。許可を得て、鷲北氏の最近の論稿を1つ、掲載する。(コンソーシアム京都2015 報告書 (2016.6刊)