謝罪についてのとらえ方は日本とアメリカではかなり違うと思う。しかし日本の謝罪観はアメリカのそれに近づいているようにも思う。日本では通常「すみませんでした」とすぐ謝り、相手も「こちらこそ悪うございました。許して下さい」と誤り、お互いに謝ることにより和解が成立する。ところが、アメリカでは、謝ると自分に非があると認めることで、それは負けを意味する。謝らず、相手の非を非難して、勝ちを勝ち取るべきだという文化があると思う。日本もだんだんこの考えに近づいている。
オバマ大統領の広島訪問にいろいろな見方があるが、広島への原爆投下に関して謝罪しなかったことに、失望感を示す意見も多く見られた。これは、日本的な謝罪観とアメリカ的な謝罪観を両方含んだものであろう。
戦争の勝ち負けが既に決まっている時点で、空からの大量の民間人を殺りくしたアメリカの広島、長崎への原爆投下は、当然非難されるべきことがらで、多くの日本人がそれに対して大きな怒りを感じ、謝罪もないアメリカ大統領の広島訪問に、失望や怒りを感じてもおかしくない。
その失望や怒りが大きくならなかった原因について、歴史社会学の山本昭宏氏は、]「『平和』に覆い隠され、被爆者個人の怒りは表に出てこなかった」「大きく分けると、怒りを表せなかった終戦直後、それが解き放たれた50〜60年代、『平和国家』の名のもとに怒りを表しづらくなった70年代以降」となる、と考察している(「朝日新聞」5月28日、オピニオン)。
一方、藤原新也は、オバマ大統領の広島訪問を一定程度、2つの理由から評価している。ひとつは、空から大量殺人をした原爆に対して、地上に降りたち、多くのアメリカ国民の反対を押し切って広島を訪問したこと。もう一つは、アメリカの大統領が有色人種だからこそ出来た広島訪問ということ。白人は、決してドイツやイタリヤには原爆は落とさなかったし、白人の大統領は広島を訪問しないであろう。。
ことは、謝罪の有無よりは、もっと大きなこと(戦争、人種問題、核問題―核戦争、原発事故)を考えなければいけないことのようだ。