今日(8日)の朝日新聞朝刊には、中学校の部活動が取り上げられていた。この分野の研究を長年続けている西島央氏(首都大学東京准教授)のコメントが載っていた。要点をピックアップしておく。
1現在でも多くの学校に外部指導者が入っている。指導者には、しかるべき研修や資格できちんと部活動の意義を共有してもらう必要がある。
2 学校と社会をつなぐような仕事をする人を各校最低1人配置する。
3 1週間のうち月水金は野球、火木は演劇といったように、一つの部の活動日数を減らして、複数の部への加入を認める。
4 部活動には、放課後や週末の居場所、友達や地域社会とのつながりづくり、進路選択、文化面での格差是正などで役割や意義がある。学習指導要領に、部活動の役割や意義をしっかり定義する。
日: 2016年5月8日
母の日
今日(5月8日)は、母の日。
母親にカーネーションややプレゼントを贈っている人は多いであろう。
私の場合、唖然としたのは、今年は生まれて初めて、何十年ぶりに何かを贈るべき母がこの世にいないという事態である。
いなくなって、できなくなってその大切さに気が付くということがある。今いる人、今あるもの、今できることを大切にしたいものである。
上記の文章に関して、母の日のカーネーションの昔や由来など、貴重な情報を、水沼文平さんが寄せて下さった。掲載させていただく。
「母の日」を拝見いたしました。私が小学生の低学年の頃(昭和30年頃)、学校では「母の日」に、母が健在な子には赤い造化のカーネーション、母を亡くした子には白い造化のカーネーションが与えられました。何年か前に高校の同級生数名と故郷で飲んでいてこのカーネーションが話題に上りました。小学生の頃の彼らの同級生のケースを紹介します。A夫は両親が離婚して新しい母親がいます。B子は両親が離婚して父親と一緒ですが母は他所で健在です。C子は母が死亡して祖父母と暮らしています。学校がそれぞれに渡したカーネーションは、A夫は赤、B子とC子は白でした。ほとんどの子どもは赤いカーネーションをもらいましたが白いカーネーションを胸につけた子どもの気持ちはどんなものだったでしょう。私の経験ではB子タイプの同級生の女子は貰った白いカーネーションをすぐポケットに入れてしまいました。私はカーネーションの「安全ピン」を初めて見たという記憶が残っています。
そもそもこのカーネーションはアメリカの教会で母を亡くした人に白いカーネーションを贈ったことが起源で、このことが「母の日」に発展したとのことです。日本でも戦前から教会を中心に白いカーネーションがあったようですが、戦後GHQの指導によるものか「母の日」が制定され、赤いカーネーションが登場したものと思われます。日本では学校が教会の代わりをして「家族調べ」を基に母のいない子には機械的に白いカーネーションを配ったようです。「母の日」に子どもが母に赤いカーネーションを贈るようになったのはいつ頃からでしょうか。私の母は30年前に亡くなりましたが生前カーネーションを贈った記憶はありません。母親の「生存・死亡」を基準にカーネーションは他者から貰うものだという固定観念のせいか、あるいはそういう習慣が一般化されていなかったからでしょう。バレンタインデーも含めこれらの新しい習慣を見ても日本人は外界から影響されやすい民族といえます。カーネーションというステレオタイプから離れ、それぞれの母親が最も喜ぶものを贈りたいものです。(水沼文平)
私も水沼さんの文章を読んで、小学校時代に学校で子どもたちに造花のカーネーションが配られていたことを思い出した。それを安全ピンで胸に着けて、母親への感謝の気持ちを表した。その時、母の健在の子どもには赤、母がいない子には白のカーネーションが配られた。今思い出すと、それは残酷な気がする。また当時は皆貧しかったので、子どもが本物のカーネーションを買うことはできなかったので、造花を学校が子どもたちに配ったのであろう。その後、幼稚園や学校の美術工作の時間などで、子どもたち自身がカーネーションを紙などで作るようになったと思う。