水沼文平さん(中央教育研究所)より、自分の地震体験を綴ったメールをいただいた。貴重な記録であり、本人の了解を得て、掲載させていただく。
「地震、中央構造線、地層」を拝見しました。日本の陸域だけでも2,000以上の活断層があるそうです。今なお続く熊本の地震と被害を見ていて、地震国に生きる者たちの宿命「明日は我が身」を改めて認識しました。私は三つの大きな地震を経験した。
1964年6月16日の「新潟地震」、1978年6月12日の「宮城県沖地震」、2011年3月11日の「東北地方太平洋沖地震」である。
新潟地震は高校3年生の時、昼休みに屋外にある柔道場に向かう途中で地面が大きく揺れた。体育館の壁面からコンクリート片が落ちてきた。後で分かったことだが、仙台の震度は5、震源地の新潟では津波が襲来、石油タンクに引火、液状化によって多くの建物が被害を受けた。
宮城県沖地震は32才の時、月曜日だったが休日出勤の振り替えで会社を休んでいた。夕方、自宅の前の道路で5才のこどもと遊んでいた。突然目の前の電柱が左右に揺れ、地面が波打った。周りの家の瓦が落ちてきた。地震が収まった時、家内が引きつった顔で4才のこども小脇に抱え娘の名前を呼びながら走ってきた。家の中には2才の娘が寝ていた。我に返り家に駆けこんでみると、娘はすやすやと眠っていた。家具の倒壊もなかった。仙台の震度は5。ブロック塀の倒れ何人かが亡くなった。
ガス・電気・水道がストップした。水は古い井戸からポンプで汲み上げたが、ガスと電気の復旧にはかなり時間がかかったような記憶がある。
東北地方太平洋沖地震は65才の時、私は三軒茶屋の昭和女子大学の某教授の研究室で数名の会議に臨んでいた。2時46分、大きな揺れが来た。5階にある研究室は三面が書棚で、専門書が今にもこぼれ落ちそうだった。身の危険を感じ、私たちは階段で階下に降りた。人見講堂の広場に学生たちが集まっていた。校舎のビルとビルをつなぐ渡り廊下が今にも壊れ落ちそうだった。携帯のニュースで東北の太平洋岸で大地震、津波が襲っていることを知った。東京の震度は5強。
三つの大きな地震に触れたが、一番怖いと思ったの宮城県沖地震だ。幼いこどもたちの命が脅威に晒されていたからだろう。
昨秋、岩手県の北から南まで沿岸を歩いた。陸前髙田市は街の全貌を喪失していた。復興は遅々として進まない。福島県では、科学が生み出したのに、科学では制御できない放射能汚染で苦しんでいる。
自然に恵まれた日本、この自然が時々荒れ狂う時がある。そんな自然に日本人は長い間、畏敬の念を持ち、調和を図ってきた。
熊本では大きな地震が収まらない。南米エクアドルで3月17日朝(日本時間)、同国沿岸部を震源とする強い地震があった。
私の住む町にも大きな地震が来るかもしれない。その時はその時だ。◇水沼 文平