新鮮な気持ちを書き留める

《旅人の目のあるうちに見ておかん朝ごと変わる海の青あお》
 『オレがマリオ』(俵万智:2016年3月12日朝日新聞朝刊)

 あまり変わらない日常が続くのに、退屈しないのは何故だろうか、不思議に思うことがある。それは、自分は変わらなくても、自分の周囲にいる人が少し入れ替わっているせいなのかもしれない。
 特に学校や大学は、毎年一定程度の生徒や学生が入れ替わっている。小学校では6分の1、中高では3分の1、大学では4分の1が新入生である。教員の方も多少の入れ替えがある。入れ替わった人は、まったく新しい世界(環境)に身を置くので、日々驚きと新鮮な気持ちの連続で退屈している暇はないと思うが、その他の人も参入者(新入生)の驚きや新鮮な感覚に影響され、新たな気持ちになるのではないか。4月は特にそういう季節である。
 新しい世界(土地、組織、人間関係等)に行った時の新鮮な気持ちは、それがどんな素晴らしいところであっても、日常となると忘れてしまう。それをしっかりと書き留めておきたいものである。

話し言葉の教育について

学校という場は(大学も)、書かれたものが重視され、教科書や黒板やプリントやパワーポイントやノートも、書かれたもの(文字)を中心に、授業がすすむ。
しかし、話し言葉やプレゼンや討論の方が、双方型コミュニケーションがすすみ、重要だという認識が段々すすんでいるように思う。
ただ、教師というもの(特に大学教師)は、書く文字文化の中で育ってきたので、話すことはあまり上手でない人が多い。
それに比べ、政治家というものは、なんて話が「上手」なのだろうと感心する。そのような人が政治家になっているのであろうが、国会での質疑のやり取りを聞いていても、とても活弁で、自分の都合の悪いことはさりげなくかわし、別の話題に逃れたり、相手を責めたり、自画自賛の方向に持っていったりで「感心」する。
今の保育所の待機児童に関する国会議員とマスコミ人とのやり取りを見ていても、それを感じる。
話し言葉の教育は、どのようにすればいいのであろうか。国会議員のような、言葉だけ上手な人を育てればいいわけではない.

3.11に思う

放送大学の文京学習センターの客員教授をしていた時、月に2回開いていた自主ゼミが、今は、メンバーの自主運営で。「SEガーデン」というサークル名で、月1回(原則として毎月第2木曜日の3時半〜6時)放送大学文京学習センターの演習室で開催されている。
昨日(3月10日)のテーマは、3.11にちなんで、「自分の震災体験」であった。
仙台で震災にあい、ひとりで数日、水や食べ物や寝るところを探し求めてさまよったIさんの被災体験報告(本人は、かすり傷に過ぎなかったと述べていたが)を中心に、各自が自分の震災体験を語り、震災や防災、そして原発(の恐ろしさ)への思いを強くした。なかには、東北に3度も行き、震災のすざましさを目のあたりにして、写真も撮れなかったという体験を語るKさんもいた。

私自身はたいした体験もなく(一晩、放送大学仮校舎に泊まった)、多少の寄付はしたが、東北に行くこともボランティアをすることもなく、話せることはほとんどなかったが、次のような感想を述べた。

Iさんの体験談から、各自の生き延びる努力、そして見知らぬ人との相互扶助の大切さを感じた。
日本全国の学校では、安全教育、災害対策がすすんでいるのはいいことだと思う。ただ、子どもを親に引き渡せばいいという学校の姿勢には疑問を感じる。
小熊英二の指摘(3月8日、朝日新聞)のように、東日本大震災の復興費用32兆円のほとんどが高い防波堤を建てるというインフラ整備にかけられ、被災者の生活再建に直接支給は1%と少ない施策には疑問を感じざるを得ない。発想の転換が必要である。
震災当時、福島はもちろん関東そして日本全土が放射能汚染で危なかった原発事故を思うと(NHKのドキュメンタリーがそのあたりを詳細に報道していた)、原発の再稼働は考えられない。なぜこの教訓が日本で生かされないのであろうか。
津波の被害も甚大だが、それ以上に原発の放射能に汚染された福島地区の悲惨さは壮絶である(NHKの番組でよく放映されていた)。放射線量が高く、立ち入り禁止地区になると自衛隊も救援隊も入れず、亡くなった人も放置され、見捨てられた地区となる。このような犠牲の上に、今の(美しい?)日本という国が成り立っている。

関連記事 朝日新聞、2016年3月13日(ニュースの本棚)転載
原発事故5年 責任と開発体制の見直しを 大島堅一

福島第一原発事故から8カ月後、敷地内の放射線量は毎時70マイクロシーベルトを超えていた(福島県大熊町)
 東京電力福島第一原発事故から5年が経った。一体なぜ事故が起きたのか。その原因が、安全性を軽視し、無責任に原発を拡張し、原子力を開発してきた体制そのものにあるのは明白である。関係者に責任をとらせ、この体制そのものを解体しなければ、原子力をめぐる問題は、これからも生み出されるだろう。
 事故後も、このログイン前の続き体制は健在である。これは、一方では原発事故被害者を打ち捨て、他方では原発を再稼働させている。
 日野行介『原発棄民 フクシマ5年後の真実』は、避難した人々、特に避難区域外から避難した人々が、十分には救済されず、国や県によって無視されている現状と、その結果人々が直面する困難を詳しく描く。避難が復興の妨げであるかのように扱われ、十分な賠償が行われるどころか、避難者に対する僅(わず)かな支援すら打ち切られようとしている。事故被害者に落ち度はない。東京電力と行政の責任は重く、切り捨ては許されない。
 ■実被害を矮小化
 事故が起きたにもかかわらず、誰の責任も問われなかったため、原子力回帰が進んでいる。その主体は、経済産業省と電力会社を核とする、いわゆる「原子力村」である。小森敦司『日本はなぜ脱原発できないのか』は、その内実を見事に明らかにしている。福島原発事故後初のエネルギー基本計画策定過程で、政府が国民から集めた意見の9割が原発反対であったことを経産省は隠した。原子力死守の動きをえぐり出し、白日の下にさらしたくだりは圧巻である。
 責任をあいまいなままにすることは、被害実態の把握をもゆがめている。study2007『見捨てられた初期被曝(ひばく)』(岩波科学ライブラリー・1404円)は、事故発生直後に防護体制が全く機能しなかったこと、さらには、被曝被害が小さく見せかけられてきたことを実証した貴重な文献である。被害の矮小(わいしょう)化は、原子力規制委員会が作成した原子力災害対策指針に事故の教訓が生かされていないことにもつながっている。
 福島原発事故の被害は、被曝にとどまらない途方もない広がりをもっている。原発事故被害の本質は、地域の人々の人間らしい生活そのものが奪われたことにある。淡路剛久ら編『福島原発事故賠償の研究』は、東京電力と国の責任、原発事故による被害実態と損害、除染の問題点と課題など、原子力損害と賠償に関連する論点を包括的に整理し、原発事故被害をいかに救済すべきかを明らかにしている。第一線の研究者と弁護士の共同研究の成果である。
 原子力開発体制のあり方は、福島原発事故以前から問題視されていた。吉岡斉『新版 原子力の社会史』(朝日選書・2052円)は旧版を修正、福島原発事故に関する章を加えて、事故後、出版されたものである。日本の原子力開発の歴史を知ることのできる現代の古典である。
 ■解決方法を提示
 無責任な原子力開発の結果、福島原発事故以外にも、廃炉、放射性廃棄物問題などがもたらされた。困難な課題を解決するにはどうすればいいのか。この点については、評者自身もかかわった原子力市民委員会『市民がつくった脱原子力政策大綱』(宝島社・994円)が、福島第一原発の後始末や放射性廃棄物の処理・処分を含め、具体的解決策を提示している。原子力技術者から社会学者、経済学者まで広範な専門家と市民の共同作業で作られたものである。
 ◇おおしま・けんいち 立命館大学教授(環境経済学) 67年生まれ。『原発のコスト』『原発はやっぱり割に合わない』など。

ワラビスタン

多文化共生の重要さがさまざまに論じられている。中央教育研究所所長の水沼文平さんから、あまり知られていない日本に住むクルド人に関して情報が寄せられた。興味深い内容なので、掲載させていいただく。

蕨(わらび)にある「ハッピーケバブ」というクルド料理の店に仲間と行きました。
国家を持たない世界最大の民族集団と言われるクルド人ですが、日本にも1,000名規模で住んでいて、多くのクルド人が集中して住んでいる蕨市、川口市を、彼らが居住する地域を指す「クルディスタン」をもじって「ワラビスタン」と呼ぶそうです。
私たち以外はみんなクルド人で、気になるのかチラチラとこっちを見るお客がいたので話しかけてみました。店の人もお客も全員男だけでした。そのうち会話の輪が広がりトルコや蕨での生活、家族の話などを聞くことができました。
20才と21才の若い人とも話が弾みま1人は2年前、1人は半年前に日本に来たそうです。ここで私が驚いたのは彼らの流暢な日本語です。半年や2年くらいで、難しい日本語をこんなに話すことができるのだろうかという素朴な疑問を持ちました。そして、それは日本語を覚えないと生きていけないという必要から生じた「流暢さ」だと気付きました。
彼らはトルコやシリアで異民族として扱われ、トルコ軍やISの攻撃で故郷を離れざる得なくなり、就労ビザで日本に来ています。彼らの仕事の大半は建築や解体現場での作業のようですが、仕事が欲しいだけに必死になって日本語を覚えたのでしょう。
小学校4年生の少年とも話をしました。日本に来て半年、日本の小学校に通っていますが私の質問はだいたい理解できるようでした。
日本の企業の中には英語を公用語にしているものもあり、日本政府は英語を教科にして小学校から仕込もうとしています。日本の代表的な英語教育学者である鳥飼玖美子先生が「英語帝国主義」という言葉を使われましたが、英語がどんどん入ってきて、その分日本語が粗末にされていく可能性もあります。
言語とは文化であり、その言語を失うことは日本人としてのアイデンティティーそのものの喪失を意味します。日本語の大切さを再認識し、その上にたった国際共通語としての英語の位置付けを明確にすることが大事だと思います。(水沼)

大学時代の合宿について

自分の学生時代を思い出してみても、大学時代の合宿の思い出は印象深くいつまでも消えない。大学の教室で学んだことはほとんど忘れているが、合宿でのことはよく覚えている。大学教育の中で、寝起きを共にした合宿の経験は貴重である。
私の場合は、大学で入ったサークルでの1年生の5月の鎌倉のお寺の本堂に50人もの学生が雑魚寝をし、真っ暗な中で上級生から話しかけられた時の戸惑いは忘れられない。また夏の野尻湖合宿で、最後コンパの後に下級生が上級生を湖に投げ込む「慣習」があり、それから逃れるために暗闇の森に隠れた恐怖の体験も、思い出ぶかい。学科でも上級生の企画してくれた山中湖の合宿(そこではマルクス・エンゲルスの本を読むように勧められた)、教育調査の為の合宿(面接の為に古河市の安い旅館に泊まり込んだ)が思い出される。
武蔵大学に勤めた時は、1年から4年まで学年を超えたゼミ合宿を毎年夏に行い、学生の交流を計った(よくテニスをした)。合宿のゼミでは上級生がとても立派なことを話すのに驚いた。武蔵のゼミコンパは皆よく飲み、宿泊先に迷惑をかけ、同じ場所を2度と使えないということも多かった。体調を崩した学生に付き添い、救急車に乗ったこともある。私の退職の時、武蔵の多くの卒業生が集まってくれたのも、この毎年の合宿のせいではないかと思っている。
上智大学では、1年生が入学するとすぐ、1泊2日のオリエンテーションキャンプがあり、これが学生たちの友達作りと大学への適応を高めるはたらきをしていた。上級生のヘルパーのお蔭もあるが(様々なゲームや寸劇やイベントを1年かけて企画していた)、行きのバスと帰りのバスで、新入生の顔つきや親密度がまったく違った。
上智の教育学科では、各ゼミが競って工夫したゼミ合宿を行っていた(歴史的な教育の建造物の見学など)。私は見学よりはゼミでの発表や話し合いを重視し、2泊3日で5回のゼミでいろいろ発表と討論を行った(場所は、軽井沢や山中湖など近場で)。他大学(横浜国大、立教)との合同でゼミを行ったこともある。また、隣の研究室の加藤幸次先生のゼミに便乗させていただきアメリカ(NY,UW等)や香港の学校訪問の旅に出たこともある。

しかし、最近学生の合宿は、ゼミでもサークルでも少なくなっているような気がする。新入生向けのオリエンテーションも、合宿はせず学内で実施することが多い。学生たちも大学ってそのようなものだと思っているので、文句も言わないし、ゼミ合宿のような面倒なものがなくていいと思っている節(ふし)を感じる。
教員にとっては、ゼミといっても、合宿もコンパもなく楽でいいなと感じる一方、学生時代の一番大事なことを経験させないで、学生を送り出していく後ろめたさも少し感じる。
(大学時代に一番大事なことは、ゼミと合宿とコンパだということを、今の学生は知らない。)