人種差別について

先々週に私の敬愛の授業で外部講師の方に、講義(テーマは「国際理解教育」)をお願いした折、人種差別のことにも言及があった。
講師の方が、イギリスに滞在中に、バーガーキングでハンバーガー注文した折、1回目はアフリカン(黒人)の店員から人種差別的扱いを受けたと感じたが、2回目正装で訪れると同じ店員から丁寧な扱いを受け、人種差別ではなく、服装の問題だったという話をされた。
その話から、私は以前に読んだ藤原新也の「世にも不思議なマクドナルド」(『アメリカ』、1990収録)のエピソードを思い出した。
藤原新也がアメリカの白人地区のマクドナルドに入っていくと、「よそ者が入って来た」という西部劇のワンシーンのような冷たい視線を周囲から感じ、わずかに黒人の血の入っている白人の女店員から、何度も注文を聞き返されるという差別的な扱いを受けたというエピソードを書いている。藤原新也は、「きのうアフリカからやってきたのかな、あんた」という、差別語ぎりぎりの言葉を女店員に返し、報復している。
「街のカラーを私が乱している」「アメリカは後から入って来たヒスパニックやアジア系の人達を根本のところは歓迎していない」という興味深い考察をしている。

私も昔WISCONSINの白人地区のレストランに家族で入った時、中にいた全員からじろりと冷たい目で見られるという同じような体験をしたことがある。また、フロリダのレストランで、隣の席の白人家族が、「日本人は真珠湾攻撃という卑怯なことをしたのだから原爆で懲らしめて当然」というような話を私達に聞こえるように話しているのを聞き、いたたまれず席をたったことがある。

そこで、先週の授業では、藤原新也の文章の主要な部分を抜粋して学生読んでもらい、感想を求めた。
学生の感想は、「アメリカでそのような差別があるとは知らなかった」「アメリカに行きたくなくなった」というものが多かった。
授業者としては、もう少し人種差別の深いところを読み取ってほしかったのだが。

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教師の努力

J大学で非常勤で教職科目を教えているK先生から、今年も私語は全く見られず、90名近い学生が熱心に受講しているが、先週の授業でビデオを見せた時、学生が2人並んでガバッと寝ているという状況がありとても驚いた、というメールをいただいた。
K先生の授業は準備も万端で、学生にも定評があり、このような学生が少数でも出るというのはあまりないことで、先生も驚かれたたことであろう。
「特にその時には注意はしていませんが、後で考えて、教職の科目ですからそのまま放置するのはまずいかなあと考えています。もちろん一般的な注意になると思いますが、」と先生の対応は丁寧であり、教えられることが多い。
一方、私の授業と言えば、準備にかける時間や意気込みは、K先生比べものにならないほど短く低いとはいえ、自分では興味深いと思う内容の講義やビデオを見せても、私語はあるし、ビデオが映っている時間、学生が顔をあげている割合は半分に満たない。(ただ、宮崎駿の「千と千尋の神隠し」のビデオの時は9割方見ていた)。
7・5・3という言葉があったように思う。それは児童・生徒が学習内容を理解する程度で、小学生7割、中学生3割、高校生3割というものである。
児童・生徒・学生が、授業に打ち込む(聞いている)割合はどの程度なのであろうか。特に、大学の授業はどうなのであろうか。もちろん、教師による、学生によるということであろうが、平均するとどの程度になるのであろうか。
K先生はJ大学(偏差値60以上)で、多くの学生が自分の授業にひきつけられることを期待し、事実それに近い授業を展開されているわけであるが、私の場合は、人(学生)それぞれであるし、せいぜい20%(多くて30%)くらいの学生が興味をもってくれればいいやくらいの気持ちで授業をしているような気がする。この点は、K先生を見習い、私の努力が必要な気がする。
K先生より「『3/4の法則』というのがあります。興味を持たせる、理解をさせるなどの目標として、1/4より2/4、2/4より3/4を目指しますが、3/4くらいが限度ではないかということです。」ということを聞いている。
学生の4分の3までは、教師の努力によって、関心や理解に持って行くことができるというのである。このような心意気こそ、教師が誰もが持たねばならないことであろう。