河口湖 合同教育社会学研究会(仮称)合宿

 下記の会が開催される。豪華な参加メンバーで、有意義な会になりそう。

 日時 2015年 11月14日[土曜日]~11月16日[月曜日]
 場所 上智大学河口湖ハイム (富士桜別荘地第8分譲地内)
11月14日
 19時30分〜20時10分    清水一巳(敬愛大学)
   自然遊びにおける大人と子どもの相互作用について
 20時10分〜20時50分 白石義郎(久留米大学)
  大学のスポーツ部活動について
20時50分〜21時30分   岩田弘三 (武蔵野大学)
     近年キャンパス文化事情
 11月15日
9時30分~11時  黄順姫(筑波大学)、栗山(筑波大学大学院)他、
大学と地域社会―同窓生・地域住民が大学を活性化する、他
 11時〜11時40分 加藤幸次(上智大学名誉教授)
      「小学校の英語教育について」
11時40分〜12時20分 潮木守一(名古屋大学名誉教授)
潮木先生を囲んで (教育社会学の過去と未来)
 14時30分〜16時30分  自由報告と討論
      望月重信(明治学院名誉教授)、横井佳代(放送大学学生)
      小林真人(中央教育研究所) 、水沼文平(中央教育研究所)
 11月16日
 9時〜10時30分   総括討論   岡崎友典(放送大学)

 参加研究会
 大学生文化研究会、教科書研究会(中央教育研究所)、SEガーデン
筑波大学リサーチユニット(グローバル共存・共生社会を生きる)

 世話役  岡崎 友典(放送大学),   
      武内  清(敬愛大学)fwne3137@mb.infoweb.ne.jp.

犬と子ども

家で飼われているペット(犬)は、いつも家族の愛玩の的であり、関心が持たれ可愛がられる存在である。しかし、そこに小さな子どもが侵入してくると、家族の関心がそちらに行ってしまい、自分の存在位置が脅かされる。
うちの犬(ソフィー)も、小さな子どもの侵入で、存在感が薄れ、いつもさびしい顔をしている。
ソフィーは、自分の位置を奪った小さな子どもに対して、どのような感情をもっているのであろうか。ライバルと思っているのであろうか、それとも弟のように思っているのであろうか。一度聞いてみたい気がする。

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教育課程論 講義メモ (2015年11月11日)

 今日のテーマ  教育と教養
 道徳教育→利己主義・利他主義→自分と他者、アイデンティティ探索(越境、他者との出会い、成長)という流れで、議論を進めてきました。
 それで、先週は皆さんのほとんどが観ている宮崎駿の「千と千尋の神隠し」の映画(の一部)を観て、その解説(本橋哲也『映画で入門 カルチュラルスタディーズ』(大修館書店、2006年)を読んで、考えてもらいました。
 皆さんの先週のリアクションを読むと、「千と千尋の神隠し」は子ども向けの映画かと思っていたが、越境や名前の喪失の意味や他者との出会いによるアイデンティティの探求のような深いテーマが描かれていたのか、という驚きのコメントが多く書かれていました。
 よい文芸作品(映画、小説等)は、いろいろな読みができるものです。この映画に対する読みも、本橋氏以外にもいろいろな人が書いています。たとえば、今日お配りした村瀬学『宮崎駿の「深み」へ』(平凡社新書、2004年)もなかなか鋭い指摘をしています。村瀬氏は、ヒロインが千尋という名前を失ったことは、元の世界との関係が絶たれることを意味すると、「由来」(過去、文化)の大切さを説いています。
 このように一つの作品をめぐっての様々な解釈があり、それらを読み比べてみたり、自分の解釈をそこに付き合わせ、友人がどのような解釈をするのかを聞いてみたり、そしてそのような解釈の違いが出てきた原因を探ったりすることは、教養として必要なことだと思います。
 世の中で、流行しているものは、それなりに人の心を捉えたものです。小説家で言えば、現代は村上春樹が一番有名な人だと思います。その作品を読んでおくことは、教員を目指す人には必須と思い、前回は『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』(2013年)の冒頭の16ページを読んでもらいました(これを読めば、もう「村上春樹を読んだことはない」と言わなくていいでしょう?)。
その小説の後半を読むと、多崎つくる君のその後の巡礼の旅から、意外な事実が明らかになり、最初の彼の悩み(友人から仲間外れにされ自殺したいという思い)は何だったんだろということになります。
今回は、村上春樹という有名な作家の作品をとにかく読むということをしてほしかったのです。村上春樹のエッセイも読みやすいものなので、一部コピーしておきます。
ただ、このような有名な作家も、その見方が、空論だと批判もされることもあります。藤原新也による村上批判の文章をコピーしましたので参照してください。
 若い皆さんが、自分の好みのみに閉塞し、同質の友人とだけ交友を狭めるのは、もったいないことです。読書は、身近な人だけではなく、広い世界の人、そして過去の偉大な人との対話でもあります。境界を越え、異質に出会うことこそ、若い時にすべきことでしょう。
 竹内洋『学問の下流化』(中央公論新社、2008年)の現代の教養に関する文章も一部お配りしまたので、教育における教養の意味や意義についても、考えていただきたいと思います。
 教師は「教科書を教える」のではなく「教科書で教える」人です。教師を目指す皆さんは、このような広い読書を通して、教養の幅と深みを増してほしいと思います。
 (配布プリント A3で6ページ、これだけ読んでコメントを書いてもらうのも、今回の狙いの一つ)

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教職概論講義メモ(11月10日)

 今回(11月10日)の敬愛大学の教職概論では、「教師と親―モンスターペアレント」と題して、次のようなリアクションペーパーを用紙した。多文化教育的視点を取り入れ、最初に親の立場から考えてもらった。
資料としては、諸富称彦氏と山脇由紀子氏のモンスターペアレントに関する本の一部の抜粋を配り、講義し、学生にこのテーマで考えてもらった。
 授業では途中、ロールプレーイング(役割演技)も取り入れ、モンスターペアレンツ役の学生と担任教師と校長役の3人の学生で、即興演技をしてもらった。 学生の演技はなかなか熱がこもり、いつになく授業が盛り上がったが、敬愛の学生はやさしいのか、モンスターペアレンツではなく普通の親と、気弱な担任教師と弱腰の校長の対決になってしまったが。
参考にした文献の山脇氏は、教師や学校側は、「誠実な対応」をしてはダメで、「モンスター」に向かう気で、対策を考えるべきだとしている。

教職概論(2015年11月10日)「教師と親、地域社会」 リアクション
       学籍番号      名前
1 あなたは、子どもの親だったとして、
① どのような教師を期待しますか?
② どのような教師だと期待外れですか。また教師のどのような言動が許せませんか。
2 モンスターペアレンツになって、教師に、難題を吹っかけて下さい。
3 モンスターぺアレントに対して、諸富称彦氏と山脇由紀子は、どのように対処すべきと言っていますか。
4 親と教師の関係は、どのようにあるべきだと思いますか。(また、教師と地域社会の関係は、どのようにあるべきだと思いますか。)
5 上記の問題に対処する為に、教師が日頃心がけるべきことは、何でしょうか。

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生きる力

知り合いのOさんから、メールをいただいたのでそれを転載する。過去に私のブログに書いてきたことにも通じるテーマが論じられ、紹介されている。

 【0から1800億円企業を築いた立役者】 95歳のスーパーおじいちゃん多田野 弘さん(ゼロ戦搭乗員)という方がいらっしゃいます。 
 クレーンや高所作業車などの製造販売を行う 株式会社タダノ(東証一部上場企業)の名誉顧問のブログのご紹介をしたいと思い、不躾ながらメールさせていただきました。
 多田野さんは戦後の焼け跡から家族と共に会社を立ち上げ、現在、従業員数3000人以上、売上高2000億円を超える大企業へと発展させ、現在は名誉顧問で95歳です。
 その多田野さんがおよそ2カ月に一度の割合で書かれているブログ「航海日誌」があり、
私は7~8年ほど前からの読者ですが、最新号Vol.164 (2015.11.04)「生きる力」の中で
次のようなことが書かれています。
「命の最高の喜びは、命を懸けても惜しくない対象と出会うことにある。その時こそ、命は最も充実した生の喜びを味わい、激しく美しく燃え上がるのである。何に命を懸けるのか、何の為なら死ねるのか。この問いに答えるのが生きることであり、この問いに答えるのが人生である。」という文章がありました。 ↓
 http://www.tadano.co.jp/tadanocafe/logbook/vol_164.html
 戦時下でゼロ戦搭乗員として、何度も死を覚悟されたという多田野さんが発するメッセージにはなんとも不思議な説得力を感じました。こうした思いを共有される方がいらっしゃればと、このブログの存在をお知らせしたいと思いメールさせていただきました。
 多田野さんは、「NHK戦争証言アーカイブス」にも紹介されています。 ↓
 http://cgi2.nhk.or.jp/shogenarchives/shogen/movie.cgi?das_id=D0001130113_00000
 何かの機会にご紹介いただけましたら幸いに存じます。

上記の紹介に、昔のゼミの卒業生(S君)から、メールが寄せられた。その一部を転載させていただく。

<ご無沙汰しております。11/11のブログ「生きる力」を拝見して、思い出したことがあります。
井上俊「死にがいの喪失」です。約30年前にゼミ(演習)で紹介された本だと思います。
この本のタイトルは、逆説として「今の時代に生きがいはあるのか」という問いに聞こえました。
でも、そういう問いが「ダサい」とかたずけられる時代でした。
政治的な敗退後の無気力やノンポリの時代からは時期的に後の時代で、時代の空気が違っていました。
村上春樹の初期の作品(「羊たちをめぐる冒険」「風の歌を聴け」「1973年のピンボール」)が、最初に支持された時代だったと思います(かなり批判されましたが…)。
今でも「何のためなら死ねるのか」という問いに答えるのは難しいですが、その答えを時代がつくってしまう場合もあるように思います。
自分の命を賭して何かに挑むという、そういう気持ちをすでに自分が持ちえない…。一度死を覚悟した人間とそうでない人ではその後の人生でも…。
よくわからない部分もたくさんあって、うまくまとめることができません>

30年前にゼミで取り上げた本のことを今でも覚えてくれている人がいるというのは、嬉しい。大学教師の役割は、上手な授業をすることより、本を紹介することにあるのかもしれない。