この歳になっても自分の死に関してあまり考えたことがない。しかし、高校の同級生でも既に6人が亡くなっているし、少しは考えなくてはいけないことであろう。
自分が死んだらと思うと、無性に悲しく感じることはある。その悲しさはどこから来るかというと、人との交わりが一切なくなることからくる悲しみである。それはこれまで経験したことのない虚しさの感情で、あまり考えるのはよそうとつい思ってしまう。
同世代の藤原新也は、自分の死に関して、次のようなことを言っている(CATWALKの中で述べているので、正確な引用はできないが、)
「自分がこの世からいなくなることに未練はありません。それは与えられた人生を十分楽しんだということに加え、生きるものの条理だからです。しかし、哀しみはあるはずです。それは此の世で交わってきた人々や風景と離別せねばならないからです。自分の死ぬときに悲しみに暮れる人の気持ちをおもんばかる痛みを持てるということであるなら、それはエゴではなく愛だと思います」
(ほとんど共感できる内容だが、最後の「自分の死ぬときに悲しみに暮れる人の気持ちをおもんばかる痛みを持てるということ」ということは考えたことがないことで、考えさせられる。)
同じく同世代の水沼文平さんは、次のように書いている。
自分の死について、考えてみました。
○死ぬことは現世の全ての繋がりから離れ無の世界に入ることです。
恐ろしいことですがこれが生き物に与えられた節理だとすれば従容として受け入れるしかありません。
○無の世界に向かうため禅僧は厳しい修行を通して無の世界を極めようとしますが、私は凡人ですので今のままの楽な生き方でいいと思っています。
○身内や親しい人が死んだ場合、一時は深い悲しみを覚えますがそれも持続せず日常の中に紛れ込んでしまいます。
裏返せば、自分が死んでも同様に忘れ去られてしまうということです。
残るのは墓の裏に刻まれた俗名と死亡年月日だけです。
○それでは「これからどうするのか」ということになります。
経典に「独死独去独来(独り生まれ、独り死し、独り去り、独り来たる)」という一節があります。
自己の存在は宇宙的に孤独であるとする厳しい現実を現した言葉です。
しかし、この言葉には「だからどうする」という人の生き方を促す励ましの言葉も含んでいます。
現在の私にとってそれは「Now And Here」がぴったりかなと思います。
そんなに遠くない日に死の瞬間が訪れます。
その時まで、死ぬことなど入り込む隙のないほど、人、仕事、勉強、旅行、運動などに熱中して生きていきたいなと思っています。
死ぬ時は「敦盛」の「人間五十年、下天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり」という言葉をちらりと思い浮かべ死にたいものです。
十年ほど前、北海道の利尻島に行き夜空を見たことがあります。
満点の星空の中で自分が抱きかかえられているような感じを持ちました。
死とは大宇宙に還ることなのかもしれません。