「思い出の中の先生」から考える

「思い出の中の先生」というテーマで、授業(敬愛大学「教職概論」)をやりたいので、自分の思い出の先生(教師)について振り返ってみたい。
私は祖母や母親から学校の先生は全面的に尊敬するものと教えられてきた。そのせいで、どの先生も尊敬してきたし、よい先生にばかり教えてもらったという印象が強い。
小1の時の若い菅原先生は、私の女性へのあこがれの原型を作った先生(背が髙くスラッとしていたという印象。自分が小さかったので見上げていたのであろう)。小2の酒井先生は母親のように優しい先生(習字も学校外で習ったような記憶がある)。3年の時の鎌田先生(男)は、細かいことにこだわらないおおらかな先生(お蔭でのんびりした印象がある)。4年次の山下先生(女)は厳しく、唯一苦手だった先生(登校拒否気味になったこともある。クラスで誰かのものがなくなり、犯人探しが行われたことがある)。5,6年担任の児玉先生は、優秀で厳しかったがさっぱりした先生で、多くを学び、その後の交流が50年以上も続いた(私も佐渡生まれということもあるが、数年前に皆で、故郷の佐渡に帰っている先生を訪ねたこともある。一昨年亡くなられた)
中学(千代田区一ツ橋中学校)では、1年の担任の久保木先生(英語)、2年の担任の安藤先生(技術)とも 、優秀で親身な先生で、夏には生徒の有志をキャンプに連れて行ってくれた(奥多摩と松原湖)。社会科の先生からは政治の見方を学び、その後の私の政治意識(イデオロギー)はこの時期に形成された。音楽の授業は、音楽家をめざしている若い男の先生で、クラシック音楽の素晴らしさを教わったように思う。3年の数学の先生も明確な説明をする先生で、進路指導も的確であった(私は都立日比谷高校と、早稲田学院を受験した)。一ツ橋中学からは同期で都立日比谷高校へ50名以上が進学した(当時、麹町中学から日比谷高校は60名くらい進学し、番町小→麹町中学→日比谷高校→東大が、エリートコースと言われた)。
都立日比谷高校では、旧制中学(府立1中)以来の古い名物先生もいて,また受験界でも有名な先生、博士号をもっている先生もいて、授業のレベルは高く(難しく)、先生たちは、皆すごいなと思った。(高校2年の時の担任は、後に『試験に出る英語』で有名になった森一郎先生だった。。森先生には、ホテルニュージャパンの喫茶室でコーヒーを御馳走になったことがある)。高3の時の英語の池谷先生の博学ぶりには皆感心していたが、私のいたクラスがあまりに騒がしく、温厚な池谷先生が「こんなクラスは日比谷始まって以来」と激怒され、教室から途中で出て行かれたことがある。そのクラスメイトの中には、当時ラクビー部の主将で、後に文部大臣や外務大臣ににもなった故町村氏もいた)
このように振り返ってみると、素晴らしい先生ばかりで、いろいろ影響を受けた。しかし、自分も教師になろうと思ったわけではない(当時の日比谷高校から、教員養成大学に進学する者は皆無であった)。
多くの敬愛大学こども学科の学生に、教師になろうとしたきかっけを聞くと、「小学校の先生がよかったので、そのような先生になろうと思って」という答えが返ってくる。そのあたりのことを詳しくきいてみたい。

敬愛大学 教職概論 第3回(10月13日) 思い出の中の教師 (授業予定)

リアクション (リアクションペーパーに記入)
1 小中高の習った先生(教師)を思い出し、どのような先生が印象に残っているのか、書きなさい。
2 振り返って、習った教師(先生)に共通している特質は何か。どのような人が,教師になっていると思うか・
3 あんばいこう「わが思い出の中の『先生』たち」(配布プリン)を読んでの感想
4 武内清「思い出の中の先生」を読んでの感想
5 清水義弘「現代教師のカルテ」、宮沢康人「学校を糾弾する前に」(配布プリント)を読んでの感想
6 (以上から)どのような人が、教師になればいいと思うか。

(この授業内容は、「自分は教師に向いていると思うか」「千葉県の求める教師像」(第1回)、「国の求める教師像」(中教審答申)、「東京都の求める教師像」(第2回)に続くものである)。