これは朝、寝ぼけまなこで、ぼんやり考えたことであるが、人の価値志向により、人が4種に分けられるのではないかと思った。
分類の第1の軸は、「もの志向」か「人間志向」か(理系か文系かと言ってもよい)
分離の第2に軸は、業績重視か属性重視か(外面評価重視か内面充重視かと言ってもよい)
この2つの分類軸を交差させることにより4つの象限ができる。これが人の分類になる。
お金人間(もの志向・業績重視)、地位人間(人間志向・業績重視)、
愛情人間(人間志向・属性重視)、趣味人間(もの志向、属性重視)
この4つは、人間の類型でもあり、また価値あるものとして人が求めるものの分類でもある。(T.パーソンズのAGILに対応している)。
どれか一つというよりは、人により求める比重が違うと考えてもよい。(たとえば、私の場合は、最初から2-2-4-2かもしれない。若い時はもう少し最初の2つが多かったかもしれない)
これを、学生に話したら、あまり感心されず、「当たり前でしょう」といった反応であった。やはり、寝ぼけまなこで考えたことは、ダメなのであろうか。
月: 2015年10月
潮木守一先生のエッセィ
私が学生時代に最初に教育社会学を教わったのは潮木守一先生である。先生はお元気で、今も次々と本を書かれている。最近に送っていただいたエッセィを、先生のご了解を得て、掲載させていただく。
A 本の周辺「雑学の登場」
はるか昔の少年時代の記憶である。地方小都市では本屋にもそれぞれ格があった。格の高い書店、格の低い書店、その中間の書店。その違いは少年の目にもすぐ分かった。あまり格の高くない書店は、小さな子供向けのぺカペカした本を売っていた。教科書販売をメインにしている書店の店頭では、およそ無愛想な店主がいつも面白くもないといった顔で座っていた。その書店は教科書販売の時だけで、年間の利益をあらかた上げてしまい、後は売れても売れなくてもいいのだそうだ。それが店主を無愛想にさせたのだというもっぱらの話だった。
それに対して、その町一番の格式を誇る書店では、風格を備えた店主が堂々と店頭に控え、店の気品を発揮していた。この書店がほかの書店と違う点は、店頭の一番目につくところに、難しげなタイトルの哲学書を並べていた点だった。それはほかの書店には並ぶことのない種類の本だった。今にして思えば、そのような難しい本を買う客はそう多くはなかったことだろう。けれどもほかの書店が扱わない難解な専門書を扱っているということが、その店の格を醸し出していた。
最近我が家の近くの駅ビルの中に書店ができたというので、様子を見に行った。最近の書店のレイアウトはどこもそうだが、まず店頭には雑誌類とかタレント本とか漫画を並べていた。しばらく店内を物色しているうちに、書店の一番奥まったところに「雑学」という名札のついた小さなコーナーがあることを発見した。「雑学」とはどういう本のことなのか覗きにいったところ、そこに人文書、哲学書、思想関係の本が並んでいた。かつては書店の格を誇示するために店頭に並んでいた本が、今や書店の一番奥の目立たない棚に、しかたなく並べられていた。これが「世間相場」というものなのであろう。あまり長生きをすると、見たくない光景に付き合わされることになる。その時、改めて思い知らされた。
B「本の周辺」
初めて自分の小遣いで本を買ったのは、中学生の時だった。もともと我が家にあった親の買った本ではなく、はじめて「自分で買い求めた本」を手に入れた時は、単純にうれしかった。それから80歳になった今日まで、さまざまな本を買い集めてきた。人生のある時期までは、一冊一冊「蔵書」が増えてゆくのが、理屈抜きでうれしかった。やがて部屋を改造し書棚を増やし、いかにも「籠城」を気取るかごとく、身辺を本で囲むのが自慢だった。
ところがいつ頃からか、目指す本を探し出すのにやたらと時間がかかるようになった。足の踏み場もない部屋をあちこち探しても目指す本が見つからない。それ以前に本の置き場を作り出すのに苦労するようになった。床の上に山積みで本を置くと、もう下の方の本は取り出せなくなる。無精をして下から「えいや」と引き出そうとすると、本の山が崩れ、それが隣の山を崩し、部屋中が収拾がつかなくなる。ましてやダンボールに仕舞い込んでしまうと、その本はあきらめるしかない。ダンボールの側面にいくら丹念に書名を書き込んでもダメなものはダメだった。
その頃からデジタル化が話題となり始めた。そしてアメリカの有力大学が歴史上残されている書籍をすべてデジタル化するという話まで飛び込んできた。この話を聞いてしめしめと思った。デジタル情報だったら検索が楽で、目指す文献を探し出すのに苦労しないで済む。世の中の本がすべてデジタル化されたら、さぞかしすっきりすることだろうと、このアメリカのプロジェクトを心密かに応援していた。
ところが現時点ではこのプロジェクトも完成するまでは時間がかかるらしい。そうこうするうちに、こちらは80歳の大台に乗り、最近では目が悪くなった。こうなるといくらデジタル化されても、使いようがない。とうとうデジタル情報の恩恵に浴することなく、寿命が尽きるらしい。やはり生まれた時が悪かったと今では観念することにしている。
菊の季節
授業の導入部分
一番最初の授業や、毎回の授業の最初の導入の部分が難しい。そこがうまくいくと、その後の(14回の)授業、そして毎回の90分の授業がうまくいく。
そのことは頭でわかっていながら、私の場合、具体的にどうしたらいいのか思いつかず、毎回、ダラダラと授業に入り、メロメロになって(?)授業が終わるのが常である。
知り合いの小原孝久先生は、長年都立高校で政治経済や公民科の授業を担当され、上智大学の公民科教育法の授業も十数年にわたって担当された、授業の達人で、その教育技法から教えられることが多い。
小原先生より、教え子に送っている通信をいただいた。その中に、授業の導入部分のやり方が具体的に書かれていた。大変参考になる。先生のご了解を得て、その一部を転載する。
<◆授業の「つかみ」◆
一時間目の授業というものは、何度やっても緊張するものです。これは高校でも大学でもその他の学校でも、変わりはないでしょう。どのようなクラスなのか、どのような生徒(学生さん)がいるのか、はたして授業はうまくいくのか、いろいろ心配はつきません。
大学の授業という特性もあるのか、私は一般的な自己紹介や授業の説明から始めるのではなく、思い切って具体的な例話のようなものから授業を始めます。
この授業では、自分の名前を板書したら、「千と千尋の神隠し」と「モダンタイムス」の映画の一場面の大きなコピーを、3枚ずつ黒板に貼り付けます。そして、この写真は何のものかと学生さんたちに質問します。さすが「千と千尋」の方は、まず答えの声が上がります。これは授業の「導入」であり「つかみ」なのですが、もう少し続けてみます。
「千と千尋」について、見たことがある人に手を上げてもらいます。ほぼ全員が手を上げるのですか、ここで一つテクニックを使います。そのまま手を下げないように学生さんにお願いし、まわりを眺めてもらいます。いかにみんなが見ているか、学生さんたちは確認することになります。その状況を確認してもらった上で、これだけ多くの人が見ているこのアニメ映画の主題は何かという質問を出してみます。ここで、答えが意外と簡単ではないことに学生さんたちは気がつきます。
話はこれくらいで十分でしょう。要するにこの映画の話で、学生さんたちは授業に引き込まれることになるわけです。授業の進行をもう少し補足すると、映画のカタログ本(映画館で販売しているものです)を出し、そこにある宮崎駿の「この映画のねらい」の一部を紹介します。それによると、映画の主題は「自分さがし」であり、「自分の確認」とも言えるようです。もう少し掘り下げてみれば、ポストモダンの現代における自分探しということになるかも知れません。
この話を聞くころには、学生さんたちはすっかり授業に引き込まれています。狙いはいろいろ考えられるでしょうが、まずは授業の中身に興味を持ってもらうこと、またいろいろ考えてもらうことです。進め方によっては、2~3分の時間をとり、隣の学生さんと映画のテーマについて話し合ってもらうという進め方もやれます。>(学教研だより、NO55より転載)
大学のゼミ
大学のゼミの位置づけは難しい。特に1年や2年の時のゼミの内容に、いつも悩むことになる。(3年や4年のゼミは専門的なことや卒論・ゼミ論や就職試験に向けてのことをやればいい)。
ひとつの考え方として、1年生の最初の時こそ、文献の読み方やレポートの書き方の基礎をきっちり叩き込む必要がある。それが出来ていないと後で苦労するし、それこそゼミという少人数の個別指導のできる場で、やるべきという意見がある。
もう一つの考え方は、1年生の時は、大学に馴染み、友人をつくことが一番大事である。ゼミはその為の一番有効な場である。ゼミでは、メンバーのコミュニケーションをはかり、楽しいゼミにするのが一番である、という考え方がある。
その両方ができるのが、好ましいことであろう。
私の場合は、どちらかというと後者重視で、今日も、2年ゼミは、近くの公園で、バレーボール、野球、バトミントンとスポーツをし、、その後連れだって、近くの店(『びっくりドンキー』)で、お昼を一緒に食べた。
メンバーの参加は12名中11名と、出席率はふだんのゼミよりよく、今日初めてゼミにば顔を出した女子学生もいて、遊びの効果はあったように思う。次回以降、これが、学生のゼミへの出席と勉学の方にむかってくれれば、嬉しい。