同じ気分から出る同じ意見

 理系の研究だけでなく、文系の研究でも、初発やオリジナリティは大事である。その考えや視点、分析、考察は、誰が最初に考え付いたもの誰なのかを、きちんと明記することが、論文を書くときの作法である。
しかし、時代的な気分の中で、同じようなことを同時に思いつくような場合は、どうなのであろう。あまり、初発を(つまり誰が最初に言ったのかは)気にしなくてもいいのかもしれない。
 安保法制に対する闘いの後の敗北の厭世気分について、今回は、これまでの安保闘争や大学闘争とは、違いということを、マスコミを含めて多くの人が言っている。またマスコミや識者に言われなくても、そう感じている人が多い
 先にコピーした天声人語の内容と藤原新也が9月19日のShinya talkで言っている内容がほぼ同じである。(藤原新也のtalkの内容を一部コピーする。文章を一部省略。全文は http://www.fujiwarashinya.com/talk/)

<もう「傘がない」は歌うな                藤原新也
今回の15年安保闘争は規模はその前の安保闘争とくらべ、規模は小さかったが取り決められたその内容は実質的な憲法九条改正であり、さらにアメリカの戦争に加担という意味からすれば60年、70年安保より重要な局面だったと思う。
そして雨の中、有り体に言えば闘争は60年、70年安保闘争と同じように敗北を喫した(というより勝負にならない闘いだったと言える)わけだが、私は今回運動に参加した若者と会ったおりにひとつだけ伝えたいことがある。
それは過去の二の舞を踏むなということである。
70年安保闘争が敗北に終わって世の中に蔓延した気分は「しらけ」だった。そのしらけの気分と行動様式は井上陽水の歌「傘がない」(今日の政治問題より恋人に会うための傘がないことの方が問題と歌った)に象徴される。さらには「私の人生暗かった。どうすりゃいいのよこの私」と歌った藤圭子の「夢は夜ひらく」。あるいは昭和枯れススキ。吉田拓郎の結婚しようよ。などなど、時代には厭世気分が横溢する。
この安保闘争世代の厭世としらけという時代気分は後年までトラウマのごとく日本人の無意識の中に浸透し、その時代気分はのちの世代の若者の政治問題への無関心にまで引き継がれたと私は見ている。
だが、秘密保護法、憲法改正、集団的自衛権のみならず、若者の過酷な雇用制度、年金への不安などによってマグマの貯まった若者の意識は45年ぶりに目覚めた。その意味においてこの15年安保闘争の敗北に際し、過去の轍を踏むなと言いたいのだ。もう「傘がない」は歌うな、と。
過去の二の舞を踏むことなく、自からのためにも後に続く世代のためにも、君たちは別の歌を歌わなければならない。私はそのように言いたい。>(shinya talk,9月19日)

 憲法や法律は、国民への規制ではなく、施政者の横暴や恣意を規制する為に存在する、というのは自明のこと。それが今の施政者にはよくわかっていないのかもしれない。
 それはともかく、今回のことで、法は絶対ではなく、それ使う国民の意識が大事という風潮が確認された。教育の世界でも、教育関係の法律(学習指導要領も含め)が絶対ではなく、それはあくまで基準的なもので、教育者や被教育者の意識や判断で柔軟に変えることができるという風になれば、それはいいことかもしれない。

英語の勉強?―朝日新聞「天声人語」英語対訳

自分の英語の勉強の為、朝日新聞のデジタル版より、天声人語の英語対訳をコピーする。

Rise of citizens’ anger toward Diet marks a new beginning:
After the Upper House passed security legislation into law amid utter chaos, I wondered whether children had also seen the news on TV showing the unseemly mess.
About a week ago, one of my colleagues showed me copies of letters that were written by six second-graders at an elementary school in the Tokyo metropolitan area. The children handed their letters to the school principal, asking him to deliver them to Prime Minister Shinzo Abe.
These students are sort of like small citizen activists. Not knowing how to proceed, the principal sought my colleague’s advice.
In the letters, the children made earnest efforts to express their thoughts about war and peace in sentences mostly written in hiragana.
The disgraceful scenes that erupted during the Sept. 17 Upper House special committee session to vote on the legislation represent the pathetic reality of the Diet where free and rigorous speech should be guaranteed. It was not the kind of sight I want these children to see.
Winston Churchill, the former prime minister of Britain, the birthplace of the modern system of parliamentary democracy, once said to the effect that the purpose of parliament is to change fistfights into debates.
What the public expects from the Diet are verbal battles, not the kind of melee that took place in the committee session, which looked like a mass brawl. It was distressing to see even for adults.
After the latest Lower House election in December 2014, which posted the lowest voter turnout in the postwar period, arrogance of the governing parties has apparently reached an extreme.
The parties have no time for the key principle for a democratic rule of a nation, which requires the governing party to respect the opinions of the opposition.
The current political situation in Japan conjures up a political aphorism born in the United States: “Bad politicians are elected by good citizens who don’t vote.”
Politicians and bureaucrats develop and implement policies as part of their jobs, which are paid by taxpayer money. In contrast, citizens don’t take part in demonstrations as their paid job. They are people who are acting from a sense of having no choice in the matter.
Let me quote a stanza from a poem titled “A Peach Rotting Inside,” by Noriko Ibaragi (1926-2006).
“People must not/ Allow their gunpowder of anger to become damp/ For the day when they stand truly under their own names.”
Here we see a new beginning.–The Asahi Shimbun, Sept. 20

法案可決からの始まり
 あの子たちはテレビニュースを見たのだろうか。1週間ほど前、同僚の記者から6通の「手紙」のコピーを見せられた。首都圏のある小学校の2年生6人が書いて、「安倍首相に届けてください」と校長室に持ち込んだという▼いわば小さき有志である。どうしたらいいでしょうと、同僚は相談されたそうだ。見ると、ひらがなの多い文ながら戦争や平和について考えを懸命に書いていた。17日の参院特別委の採決は、これが現実とはいえ、あの子らには見せたくない言論の府の醜態だった▼「議会の目的は殴り合いを議論に変えること」と、議会政治の本場英国のチャーチル元首相は言ったものだ。言葉の格闘こそ望まれるのに、集団格闘さながらの乱戦には大人も目を覆いたかった▼戦後最低の投票率だった前回衆院選をへて、政府与党の思い上がりはここに極まった感がある。反対者を尊重しつつ治めるという民主主義の要所を顧みない。米国の警句「悪い政治家をワシントンへ送り出すのは、投票しない善良な市民たちだ」が胸をよぎる▼政治家も官僚も、政策を立案して進めるのは、それを仕事として税金から報酬を受けている人たちだ。片や市民はデモが仕事ではなく、報酬もない。やむにやまれず行動する人たちである▼茨木のり子さんの「内部からくさる桃」という詩から、一節を引きたい。〈ひとびとは/怒りの火薬をしめらせてはならない/まことに自己の名において立つ日のために〉。ここが新たな始まりになる。