藤原新也 『アメリカ』

私自身はあまり海外に出かけることはしないが、旅行記を読むのは好きな方だ。特に、20年ほど前、在外研究で1年間アメリカのMadison(UW)に滞在することになった時は、研究者の外国滞在記・留学記をたくさん読んだ。たとえば、社会学者の加藤秀俊のアメリカやイギリス滞在記は大変参考になった。また、江藤淳の『アメリカと私』には感銘を受け、行かずともアメリカという国がわかった気になった。外国旅行記は、短期の印象的なものから、長年外国に住んでのそこの生活や文化の紹介まで、いろいろなものがある。その中で、藤原新也の『アメリカ』は、特異なもので、衝撃を受けた。その特徴は、①写真家藤原新也のその本質を瞬時に見抜く感性 ②7か月という中間的な長さで見えるアメリカの特質 ③長くアジアを旅行してきた視点から見るアメリカ、である。

 昨日(87日)の朝日新聞夕刊「人生の贈りもの・私の半生 藤原新也」は、その紹介であった。朝日新聞デジタル版より転載する。 

■空っぽだった快楽の国アメリカ

 ――『乳の海』で行き詰まり、どう打開しましたか。

 1988年に書いた『ノア 動物千夜一夜物語』の一編「ノア」で、猿の数が一定量を超えたとき滅びることが自明となっている森のなか、様々な生き方を選ぶ聖者を描いた。ある聖者は猿の数を熱心に数え、ある聖者は人々を笑いの渦に巻き込むことで現実逃避に誘う。旅人の「私」が最後に選んだ聖者は森に向かい音楽を奏でるホラ貝の聖者だった。滅びの中の癒やしというメタファーです。それから10年後に“癒やし”という言葉が流行語になったのは日本がその滅びの森に他ならないということかもしれない。

 ――88年から89年にかけ訪れたのはアメリカでした。

 猿の数が無限に増えて森が滅びるというのは資本主義社会の宿命ということでしょう。アジアからアメリカに向かったのは世界の構造を知るうえにおいて必然的な旅だった。寝泊まり出来るモーターホームで7カ月間をかけ全米を一周した。

 ――大型車で全米を回り、どうでしたか。

 不思議だった。それまではアジアの旅では一切メモを取らない人間だった。事物に存在感があり、記憶が身体化されたからです。だがアメリカではきのうのことさえいつの間にか忘れていて、初めて旅でメモを取った。存在感の希薄な文化だということです。

 ――アメリカでの発見や驚きとは。

 世界の快楽原則はここからやってきているということ。たとえばネズミは、かつてペストが猛威をふるった西欧でもっとも忌むべき動物です。そのネズミさえミッキーというクリーンで親しみやすいキャラに変換していく。現実に棘(とげ)のあるものをすべて“快”に置き換えていくこのアメリカ的なるものは、今の日本のメディアの中でも起こっていることだ。それからコカコーラにしろミッキーマウスにしろ、多民族国家で流通する最大公約数的文化は、おのずと多国籍で構成される世界の標準になりえるということだ。だからアメリカ文明は世界を席巻するのだというきわめて単純なことに気づいた。

 ――7カ月間、アメリカに滞在したあとの総括とは。

 アメリカを過大評価していたな。単純な構造でわかりやすかった。歴史が浅いから掘り起こすとすぐに根っこが現れてくる。紀元前からの歴史があるアジアの濃い世界と違い、映画のセットみたいに背景もルーツもない。逆にそこが非常に面白かった。

 アメリカという国家はネズミを強引にミッキーに変えてしまう自分本位な国だが、市井の一人ひとりは日本人より他者に対する思いやりがある面もある。マウンテンバイクで山を下りていて空中に投げ出されたことがあった。気がつくと十数人が顔を寄せ合い本当に心配しているんだ。東京・銀座の路上で以前、交通事故に遭ったときに遠巻きに冷たい視線を向けられたのとは対照的だった。けれども、国家になると二重人格者のように性格が一変する不思議な国だね。(聞き手・川本裕司)=全10回

アメリカの旅行記に関しては、Mさんより、下記の紹介があった。

<司馬遼太郎の「ニューヨーク散歩」「アメリカ素描」も面白いですよ。>

 

 

(人生の贈りもの)「私の半生」 藤原新也

「私の半生」という朝日新聞の夕刊に写真家・藤原新也が登場している。いくつか、私の知らないことも書かれていて面白い。特に、氏が写真家になったきっかけについては、はじめて知った。読んでいない人もいると思うので、以下に転載する。(2015年 8月4日、朝日新聞 夕刊)

■未経験の写真がいきなり雑誌掲載

――18歳で九州から上京したのですね。

中学のときに聴いたサンバギターをやりたいと、高校卒業後に東京へ出てきた。東京では遊び人をやっていて、こんなこと続けていると人間がダメになると思って、美術大学を目指した。

――1970年、雑誌『アサヒグラフ』の「“インド発見”100日旅行」がデビュー作だったんですね。

前の年、姉の付き添いで行った病院の待合室にあったアサヒグラフを開いたら、読者写真と短い記事による「私の海外旅行」というコーナーを見つけてね。イギリスからインドへ旅するための金がバイト代でも足りず、取材費を出してくれるかと、神田駅前の公衆電話から編集部にかけたんだ。「取材費は出ない。何か撮ったら持ってきて」と言われ、しゃくに障った。

――それからどのように。

有楽町にあった編集部に乗り込んだら、副編集長が『せっかく来たんだから座りなさい』と。同じ世代の人間が学生運動をしているのになぜ旅するのと聞かれ、「頭でっかちの学生の言っていることがよくわからない。安保問題より人間の生存が危ういと思うからだ」と答えたかな。2時間ほどしゃべっていたら、背中を向けていた編集長が「取材費をもらいに来たんだろ」と、10万円とフィルム30本を渡してくれた。

――写真の経験はあったのですか。

兄貴がアサヒペンタックスのカメラを持っていたので借りていけばいいと思っていた。カメラは一回も持ったことがなかった。インドのタージマハルの前で1枚撮ればいいと考え、実際に撮って義務は果たしたと。コルカタ(カルカッタ)で余ったフィルムを10本売ってもまだ20本あった。持って帰るのももったいないと撮り始めた。帰国してから副編集長に渡して終わりのはずだったんだ。旅行中のことを話したら、10枚書いてくれ、と言われて。

――記事が掲載されると思っていたんですか。

1枚が何字かもわからなくてね。「私の海外旅行」は800字ぐらいで、10枚書いたものからまとめるのかなと。すると、アサヒグラフで写真と一緒に10枚の原稿がそのまま「“インド発見”100日旅行」のタイトルで12ページ載っかった。「原稿料が出ているから取りに来てくれ」と連絡があり行くと、「もう1回書いてくれ」。それから原稿料をもらっては旅に出た。

――予想外の展開ですね。

まさかこんなことになるとはね。表現者になろうとはまったく思っていなかった。写真を始めたのは旅行資金がほしかったから。行って帰ってを繰り返し、食べていければよかった。10年間は写真家という意識すらなかった。突然やってきたどこの馬の骨かわからぬような青年の話を聞いて、ポンと取材費とフィルムをくれるなんて、いまのような管理社会では考えられない。最近は取材費なんかも出ない時代でしょ。いい時代に生まれて、いい時代に仕事をしたと思うね。(聞き手・川本裕司)=全10回

この記事からわかること(武内)

1  ダメと思われることでも飛び込んでみると、展望が開けることがある

2 藤原新也の語りには、自分の育った家族(父母、兄姉)のことがよく出てくる。家族思いの一面が伺える.

3藤原新也は、中高の時代は勉強せず成績もよくなかったということであるが、頭のよさは抜群で、高校時代に多くの本を読みふけったということが、その後の文章に反映しているのであろう。

4若い頃の遊び呆けていた時代の藤原新也の顔(表情)は、あまりいいものではない。

 

小さな花火大会

昨日(6日)は、千葉の外房の御宿で小さな花火大会があり、見に行く。

さほど大きな花火もなく、花火の本数も1500発と少な目で、30分ほどで終わるので、観客は少なく、打ち上げのそばで見ることができ、それなりの迫力はある。

3歳の子と半年になる子と一緒に見たが、3歳の子は花火が始まるとすぐ胸に響くと嫌がり退散し、半年の子は大きな音に少し泣きじゃくりながらも耐えて時々花火の方に目をやっていた。大人の都合で、幼い子ども達には、いい影響は与えなかったかもしれないと少し後悔する。

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高原で涼む

夏はやっぱり高原、ということで、涼を求めて高原へ。

軽井沢に行きたかったが、このシーズンに宿が取れないだろうと諦めて、人の少ない新潟へ。

関越から上越に入り、月夜野インターで降り、カーブの多い三国峠を越えて、苗場へ(標高千メートル)。

苗場は、先週フジロックが終わり、祭りの後の寂しさが漂う。かっての苗場の賑わいはどこへやら、行き来する車も少なく、人も少ない。広い範囲に人が一人も見えないところもある。苗場の名所のひとつボードウォークも誰ともすれ違わず、熊の出没を恐れたほど。

苗場を拠点に、湯沢町、六日町、十日町まで足をのばし、温泉、食事処、森林、美術館などを楽しむ。

夏の一番暑いとき、3〜4日でも、高原の涼しさの中に身を置いてみると、(そして数多くの温泉に入ると)体に優しく、この暑い夏を乗りきれそうに思う。

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