お盆

寝室の網戸のそばに蚊が飛んでいて、殺そうかどうか迷った。蚊の立場からすると、一瞬で命を奪われ、悲しいことであろう。そのように感じたのは、お盆のせいかも知れない。

昔、祖母から、「お盆に殺生をしてはいけない」と言われたことを思い出した。

ネットでも、同様のことが書かれていた。

<お盆は虫を殺すなってよく言いますけど、 その虫の中に「害虫」も含まれるんでしょうか?>

<もちろん害虫も含まれます。お坊さんが儀式で手に持つ「払子 ほっす」という道具はハエを殺さずに よける道具が変化したものです。つまり、害虫の代表であるハエすら殺すべきではないと言うことです>

 

 

昔の卒業生からの質問ー記憶を辿る

30年くらい前の卒業生とメールのやり取りをしている中に、次のような昔のゼミでのやり取りに関して質問された。それは、大分昔のことであり、私は全く覚えていない。そのことを通して、大学の教員が何気なく言ったことが、何年も学生の心の中に残ることがあるのだ、ということを知った。小中高校でも同じことかもしれない。教師冥利につきるともいえるし、教員の責任は重いともいえる。

<大学三年のゼミのとき、私が「言葉は映像を超える」と言ったときのことを思い出しました。例えば「きれいな女」とか「泣きじゃくる少年」とか「気難しい老人」とか言葉で言ったとき、人はさまざまな映像を想像をすることができる。言葉の持つ自由さは、映像が「きれいな女」とか「泣きじゃくる少年」の姿を固定化させてしまうのに比べ、ずっと奥行きがある、と言ったのです。そしたら先生が「言葉が映像より優れているわけではない」とおっしゃり、何かの例を出したことを思い出しました。それがはっと目を見張るような指摘だったので、私はすごく驚いたのを覚えています。残念なことにその例を忘れてしまいました。先生は覚えていますか?覚えていたら教えて下さい。>

それに対する私の返事。

<その場面は、まったく覚えていませんが、そのことで私が何か言ったとしたら、次のようなことではないでしょうか。言葉と映像との関係は、社会学者の副田義也氏が。『遊びの社会学』(日本工業新聞社、昭和52年)の中で、興味深いことをを言っています。その内容は次のようなものです。

小説(言葉)を読んだ時の想像力の方向と、マンガや映画(映像)を見た時の想像力の方向は逆で、それぞれ性質の違うものです。どちらが優れているというものではありません。前者は、言葉による心理描写を読んで読者が情景(映像)を想像するものであるのに対して、後者は、絵や映像を見てその登場人物の心理に想像力を働かせるものです。まったく、想像力を働かせる方向が逆になっています。それぞれリテラシーが必要で、それがないと理解できませんし、面白さがわかりません。マンガを読むリテラシーのない人が、マンガは低俗だというのは、本人が理解できないだけです。マンガの価値が低いわけではありません。(「少年マンガにおける想像力の問題」、同書、51ページ参照)

 

 

 

アナログか、デジタルか

今、アナログからデジタルの時代になり、日頃接している3歳の子どもを見ていると、もうかなり以前から、インターネットに接続したタブレットを自由に操り、自分の好きな動画を見ている。この子が、学校に上がる頃は、タブレットのデジタル(電子)教科書は普通になっているであろう。

ただ、同時に紙媒体の絵本もよく見ているので、その併用になるのではないかと思う。

アナログカメラとデジタルカメラの違いについて、写真家の藤原新也は、下記のようにコメントしている。

――カメラはアナログからデジタルに様変わりしましたが。

デジタルかアナログかという二者択一的論議は不毛です。なぜそこまで深刻なのか。絵を描く場合、油絵の具もあれば鉛筆もあれば水彩もある。写真メディアの中で絵を描く筆や絵の具が、ひとつ増えた程度に軽く考えればいい。アナログはアナログの長所と短所があり、デジタルもまたしかり。互いにその長所を生かせばいい。(朝日新聞・夕刊 8月12日)

これからの教科書も、アナログの紙媒体の教科書とデジタルの電子教科書は、お互いの長所を生かし、併存していくことであろう。

 

 

 

 

 

 

 

「加害者意識」の行方

小田実の「何でも見てやろう」は、旅行者のおりた視点からの考察に過ぎない、という江藤淳の批判は納得できても、小田実の「加害者意識」の方は、どうであろう。こちらは、なかなかな難しい。

ただ、次のように考えられないであろうか。

「加害者意識」という論理を推し進めると、究極は被害者の側に絶対的正義があるということになる。社会の一番の被害者や社会の最底辺の人の立場に立つことが、正義ということになる。この政策は、社会の弱者(貧困層、子どもなど)の為にならないからよくないという言い方になる。これはある程度(いやかなりの程度)正しいが、この論理に正面切って逆らえないだけに、多くの人(特に知識人)へのこけ脅しになり、常套的によく使われる。

社会のしくみは、どこでも加害者、被害者を生み出すし、また富んだものと貧しいものを生み出すのであって、それを完全に否定しては、社会は成り立たないし、人は生きていけない。それを少しでも少なくする努力をすることは大切であるが、それの徹底を理想とすることは、逆にファシズムに繋がる。これは、差別や格差問題だけでなく、いじめ論やジェンダー論にも通用することだと思う。

「加害者意識」という論理は、その後消えていった。しかし、ある程度は正しい論理なので、再考してもいいのかもしれない。

 

昔 読んだ本―江藤 淳 『アメリカと私』

「おりるのがきらいな私には「海外生活」というキラキラした舞台にのぼる役まわりも気に入らなかった。『何でも見てやろう』(小田実のベストセラー、引用者注)というおりた観察者の姿勢に無理があるように、「いつでも眺められている」という自意識に縛られた演技者のポーズも不自由なものである。「生活」というものが、ひっきょう見たり見られたりという戦いの連続である以上――しかもだれもとくに意識してそうしているのではない以上、見る一方、あるいは見られる一方という外国生活が、健康というもの理由はないのである」(江藤淳『アメリかと私』) 

この文章を読んだ時の衝撃が忘れられない。それまで、小田実ファンだった私の熱は一気に醒めてしまった。旅行者の視点を、「おりた観察者の姿勢」と一刀両断に切り捨てる鮮やかさに唸らされた。「『生活』というものが、ひっきょう見たり見られたりという戦いの連続」と、生活者の視点の指摘にも共感した。 

私は海外旅行で、カナダのバンフの美しい自然を見た時も、フロリダのディズニーワールドに行った時も、さほど感動しなかったのは、そこに人々の「生活」がないと感じたからであろう、それほど、江藤淳のことばは後に響いた。(家人からは「あなたは旅行の楽しさが何もわかっていない。もう一緒に旅行しないと、」言われてしまたが、、)

数年前に上海に行ったとき、河を行き来する遊覧船に乗った。地方からの中国人の観光客が多く、甲板で演奏されるジャズに踊り出す中国人も多く、その人たちに混じっていると、自分も御上りの中国人になった気分で、感動した。上海のホテルのまわりの人々の暮らし(通勤や通学の様子)を、朝早起きして見て回るのも、私の旅行の楽しみであった。 

江藤淳の『アメリカと私』は、江藤淳がプリンストン大学で2年間、日本文化や日本文学の教師をした生活者の視点で、アメリカ人やアメリカ社会について書いた本である。そのアメリカ体験が、帰国したからの名著『成熟と喪失―母の崩壊―』を生んだ。