異変を感じる=空気を読む

今の子ども(学生も含む)は、「空気を読む」のがたけているのかしれない。

それを学生のレポートから教えられた。そのレポートは、私の私語論(「現代学生と私語」IDE,1991 年、『学生文化・生徒文化の社会学』第2章)を上手に要約し、そのコメントの中で、子どもは「異変」を感じると、私語をやめ静かになる、と書いている。その「異変」を感じることこそ、「空気を読む」ことのように感じる。 

武内の私語論の要約

<私語を交わす学生には私語がストレス解消やコミュニケーションになると考えている人、たとえ授業中に友人と話していたとしても大事なところだけは聞き取るマルチ人間タイプの人、私語は禁じられているからこそ楽しいと考える人、そして授業中でしか私語を交わす場がないと感じている人の4つのタイプがある。そしてその私語の内容は授業に関連していることから、そうではないことまでジャンルは様々である。中には、授業をしっかりと聞いている間に、自分の興味とは合わず退屈に感じ私語につながるケースもある。だが、私語がないからと言ってその授業が学生のためになっているかと言えば決してそうではない。私語がない授業では、居眠りをしていたり内職をしていたり、と違うことに夢中になっている学生も多くいる。そしてもし担当教員が私語を厳しく禁止するような人であれば、学生はストレスにさらされる。また、日本に強く根付いている授業スタイル、すなわち教師一人が大勢に向かって一方的に話すという授業方法も私語を招く要因になっている。また「大学」という教育の場では学生が不本意に授業に参加しなくてはならないものもあり、さらに人数が多いほど学生ひとりひとりの匿名性が高まり、学生は自分の名も知らぬ人に礼儀を尽くす必要を感じていない。このように私語を発生させる原因は多様にあるが、現在の大学において私語が発生するのは必然であり、私語をヒントとして講義のあるべき姿を再検討していくことが必要である。>

コメント(一部抜粋)

 <私も塾講師として「私語」について悩んでいるため、この章をなにか複雑な気持ちで読んだ。私自身、あまり私語をする立場ではないが、中には私語を叱責する教授もいる。その場合、やはり学生側も何か「異変」を感じて静かになる。私も塾講師として叱責することはないが、あまりにも私語がひどい場合、無言でひたすら板書をする。そうすると生徒たちは私から「異変」を感じ取り、静かになる。>

 

夏祭り(盆踊り)

お祭りというと、大人でも何となく楽しくなる。今日(25日)明日(26日)は、近所の公園で地区の盆踊りがあるというので、昼間から太鼓の音が聞こえたり、山車が通ったりで、賑わっている。

少し覗いてみると、盆踊りを踊っている人はわずかで、多くは屋台に並び、それぞれの家族やグループで楽しんでいるという感じである。女の子が浴衣で着飾り、とても楽しそう。特に、近くの新興住宅地(プラウドタウン)の女の子の浴衣率が高く、髪形もばっちりという姿に、昔ながらのものが現代に受け継がれて行く姿をかいま見た。

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「教師にとってさびしい時代」

「教師にとってさびしい時代」という原稿を、半世紀前(1966年)に書いて、昨年出した『学生文化・生徒文化の社会学』ハーベスト社、2014年)に収録してある。

 そこでは、当時の学生が、「教授の権威やプライド傷つけることのないようにというやさしい心配りとモラルをもっている」が、「教師と深くかかわるより、自分の世界や友人とのつきあいを大切にしたい」という心情をもっている。「これは教師にとっては少しさびしい時代である」と書いた。(13頁) 

非常勤先の学生のレポートの末尾に、次のようなコメントがあった。

<教育社会学の授業では、受講前の想像をはるかに超える内容の興味深さでした。いつも楽しい講義をありがとうございました。> 

これをどのように読むのか。文字通り、講義に感銘してくれた(A)と、素直に取るのか。それとも「いい点がほしいから教員にお世辞を言っている」と取るのか(B)。(これは二者拓一ではなく、割合の問題かもしれない)

皮肉な見方をすることの多い社会学者はBと取り、素直な教育学者はAと取ることが多いかもしれない。私の場合はその中間なのだが、Bの見方をすること自体が、自ら「教師をさびしい存在にしている」のかもしれないとも思う。

 

東大が嫌い

今日の天声人語は、鶴見俊輔の追悼文(下に引用)。内容は共感できる部分が多い。

「器量と遊びという二つの言葉は欠かせない」「正義の人は純粋さを追い求め、ついに暴虐に行きつく」というのは、関西の文化を感じ、社会学や文化学に通じる。

ただ、一つ気になったのは冒頭の「東大が嫌い」。これを読んだ多くの読者が違和感を持たないだろうということが、気になった。東大の悪口を言うことに誰も異論を唱えないという前提、そしてそれを認めるほとんどの読者(私も含め)。

これが、「慶応が嫌い」「早稲田が嫌い」「上智が嫌い」だったらどうか。非難がごうごうと起るに違いない。このことをどのように考えたらいいのか。

(これは、話がそれるが、東大の先生が、よく「東大は、、」ということを言うという。「普通「私の大学では、、」というのに、なぜ東大、東大と自慢するように言うのか」という疑問が出されたという。それに対して、有名な東大教授が言っていた言葉が印象的であった。「東大は大きすぎて、自分の大学として同一化できない。したがって、私の大学と言えず、東大は、という言い方になる」) 

<東大が嫌い。成績が一番のやつが徹底的に嫌い。哲学者鶴見俊輔さんの信条だ。父は東大出の政治家で、一番に執着した。鶴見さんの見るところ、一番の人間は状況次第で考えをころころ変えて恥とも思わない▼二番は認めるというところが面白い。二番になった人間は努力すれば一番になれるのに、「そこの追い込みをしないところに器量があり、遊びがある」。鶴見さんを語るのに器量と遊びという二つの言葉は欠かせないように思う▼正義というものの危うさをしばしば語った。正義の人は純粋さを追い求め、ついに暴虐に行きつく。不良だった鶴見少年を叱る母はまさにそういう人だった。だから自分は「悪人でいたい」。これも鶴見思想の一つの核心だろう▼借り物でない思考と裃(かみしも)を脱いだ言葉があるから、鶴見さんを読むのは心地いい。笑いを愛し、山上たつひこさんの人気漫画『がきデカ』を評価した。己の欲望に忠実な主人公「こまわり君」は、戦争に行けと命令されても従うまい。鶴見さんはそこに日本の希望を見た▼「ベ平連」や「九条の会」を動かした行動の人は、70歳で老いを自覚したという。80歳で初詩集『もうろくの春』を出版。「もうろくは一つの創造だ」と老境を楽しんでいた。享年93▼「失敗したと思う時にあともどりをする」。その大切さを説いた姿勢を引き継ぎたい。勝利への展望が失われても戦争をやめられなかった戦前と、明白な「違憲」法案への批判に耳を貸さない今の政権の姿が重なる。>(天声人語、725日)

ついでに、上野千鶴子(元東大教授)の追悼文の一部も転載する。

<リベラルということばはこの人のためにある、と思える。どんな主義主張にも拠(よ)らず、とことん自分のアタマと自分のコトバで考えぬいた。何事かがおきるたびに、鶴見さんならこんなとき、どんなふうにふるまうだろう、と考えずにはいられない人だった。哲学からマンガまで、平易なことばで論じた。座談の名手だった。いつも機嫌よく、忍耐強く、どんな相手にも対等に接した。女・子どもの味方だった。慕い寄るひとたちは絶えなかったが、どんな学派も徒党も組まなかった。>(7月24日、朝日新聞より転載>

知り合いのKさんより次のようなコメントをいただいた。

<森博嗣さん(ミステリ作家)の『本質を見通す100の講義』の中に「田舎は褒めるしかない。都会は貶しても大丈夫」という項目があります。「弱者は貶すことができないが、強者は貶すことができる」と書かれています。クラスで一番賢い子どもに「馬鹿だね」と言ってもたぶんにやりとされておしまいになる。それだけの余裕があるからだ、みたいなことが書かれていました。東大もたぶん同じですね。>