野にある表現者

藤原新也は、建築家の安藤忠雄とこれまで2度対談している。その印象をCATWALKに書いている。1度目は安藤がまだ無名の時で、比較的いい印象だったという。2度目は安藤が東大教授の時で、何の印象も残っていないという。

人は、何か地位や安定を得てしまうと、つまらなくなってしまうのであろうか。

藤原新也にも大学から誘いが何度かあったという。それを次のような理由で断っている。

<学者ならいざ知らず、表現者というものは先生職というようなものには就いてはいけないという私なりの考えがあり、受けていない>

社会学者で、筆一本で食べられた人は、清水幾太郎だけだと聞いたことがある。日高六郎も東大に奉職している。批評家では、小林秀雄や吉本隆明は野にあったが、江藤淳は、多くの著作を書きながら、経済的に苦しかったのか東工大や大正大に奉職していた(短期ではプリンストン大学でも教えている。江藤淳「アメリカと私」)。

訂正; 上記に関して、卒業生のI氏より、下記のメールをいただいている。いくつか訂正が必要である。

<ブログの記事で気になって調べたのですが、清水幾太郎は41~61歳くらいまでの20年間(最盛期?)、学習院大教授です。江藤淳は、東工大教授→慶大教授→大正大教授で、慶応出身なので慶大教授になれたことは彼の中で一番大きかったようです(惜しむらくは、文学部ではなく新設当時のSFC)>。

余談だが、私たちは名刺に○○大学教授など肩書きを書くことが多いが、その肩書きがないと、自分の価値がないと思っているのであろう。一番偉い有名な人の名刺は、名前だけと聞いたことがある。私がこれまでにもらった唯一の名前だけの名刺は、江藤淳からのものである(武蔵大学時代、講演をお願いした時いただいた。ファンの一人の私は感激した)。ただ江藤淳もそれ程偉くないのか、名刺の裏には連絡先が書いてあった。いつか、名前だけの名刺をもう1枚くらいほしい。

 

大学におけるマナー教育について

大学は最高学府であると同時に最終学府なので、学生が実社会に出て必要なものが身についていない場合、それを教えて社会に送り出す責任がある。

それは漢字の読み書きや分数の計算だけでなく、礼儀作法やマナーについても言える。

礼儀作法やマナー違反は、なんとなく周囲から冷たい目で見られることはあっても、関係の薄い人は遠慮して注意することはないので、本人も気が付かずにいることが多い。それを注意できるのは、家族や教師や職員や親友であろう。

大学教師の場合、学生を一人の自立した大人として扱いたいと考えている。したがって、上から目線で、学生の礼儀やマナーの違反を注意することに抵抗がある。でも、学生の将来の為を思えば、悪役をかっても、注意すべきなのであろう。

大学の職員の人は、その大学出身の人が多く愛校心があり、学生に社会的ルールやマナーを身に付けさせるのは学生の将来の為に必要と考え、たとえ嫌われてもいいからと、規則の遵守を厳しく学生に促すことがよくある。大学教員も見習うべきかもしれない。