塾の費用

一昨日(12日)今日の「地域とこどもの教育論」では、学習塾のことが話題になった。「学習塾はお金がかかり、親の階層格差を拡大するもので、いいものではない。学校の教育で事足りるようにすべきではないか」という私の発言に、敬愛の多くの学生は、「放課後自分で勉強することは難しいので、学習塾は必要」という意見が多かった。 敬愛の学生で中学受験をしている学生は皆無なので、大手の進学塾には通った経験はなく、塾の費用に関して、あまり知らないのではないか。

以前、今の小学生に違和感をもつKさんが言及していた塾は月謝が3万円とのこと。随分高いと思ったら、安い方だという。御三家(男子校の開成・麻布・武蔵、女子校の桜蔭・女子学院・雙葉)などをめざす大手の塾の費用は、下記のようと聞き、びっくり。

<中学受験をする場合、“12歳の春”を目指して、小3の終わりの2月に始まる「小4クラス」から3年間通う家庭が多い。塾の費用は、授業料、教材費、定例テスト代、模試、対策講座、季節講習など。日能研を例に取ると、3年間で約215万円になります。内訳は、小4約45万円、小5約65万円。6年生になると約105万円となります。受験費用、その他諸費用を加えると230万円><塾によってどれくらい違いがあるのか。小6の年間費用で比較しると、SAPIX、早稲田アカデミーが約120万円、日能研、四谷大塚が約105万円、栄光ゼミナールが約95万円、市進学院が約90万円>。(http://president.jp/articles/-/11344

年間100万円以上かかる進学塾に3年間以上通わないと、名門の私立の中高一貫校に入れない、ひいては銘柄大学に入れない、というのは、明らかに親の階層の再生産が教育を通して行われているということであろう。

中国の食文化について

中国の大学で教えている友人のHさんが、私的な研究会のニュースレターに、日本人から見た中国の食文化について、興味深い記事を書いているのでその一部を抜粋して紹介させていただく。 

<みんな食べることがとても好き、食べることを本当に楽しんでいる。食事は、ちょっとしたイベントである。先生たちも、誘い合って、みんなで食堂に出かける。そして、にぎやかに、たくさん食べる。とても、楽しそうである。日本人は仕事の合間に食事をする。中国人は食事の合間に仕事をする。

食堂に向かう学生の「群れ」は壮観である。それは、早くしないと美味しいものがなくなってしまうということである。苦労してでも美味しいものを食べたい。

中国でも、お酒を飲む機会は多い。宴会も多い。しかし、それは「飲み会」ではない。基本的には、「食事会」である。

中国は広い国である。しかも、いろんな民族の人がいる。中国全体でみれば何でも食べているかもしれないが、個々の人たちが何でも食べているわけではない。

中国のレストラン(食堂)は、どこも圧倒的に中華の店である。しかし、地方料理、民族料理がとても多い。それらは、調理法・料理法はもちろん、食材も異なっている。香辛料も違っていれば、味付けも違う。かなり個性的である。これを見るだけでも、やはり広い国を実感する。>

小学生も読書はしない

現代の大学生がよく勉強しても、読書はしない、という大学生調査のデータに関連して、知り合いのKさんが、都内の小学生の様子を知らせてくれた(大体、以下のような内容) 

<東京の進学塾に通う小学生は、可愛らしく、教えがいがある。通塾していれば目に見えて学力は上る。しかし、何かしら感じる違和感。その理由は、子ども達が、本を読む習慣も新聞を読む習慣もないということ。>

 

現代大学生の特質

文部科学省が次々と大学改革案を提起し、各大学がそれに対応した大学改革を実行している。その中で現代の大学生は何を考え、キャンパスライフにどのような変化が生じているのだろうか。

私たちの研究グループは、1997年、03年、07年、13年の4回にわたり大学生調査を実施、学生の変化を追ってきた。調査ごとに対象大学は多少入れ替わったが、直近の13年調査は14大学、1771人を対象に実施した。

このうち、4回の調査全てで対象になった7大学(首都圏、関西、九州の国立・私立大学)のデータを分析したところ、現状に満足している学生の「生徒化」とも言うべき傾向が読み取れた。

授業の出席率は、97年の62.3%から、13年の87.7%へ25㌽も上昇した。「授業に満足している」という学生も、26.8%から49.8%へ倍増した。「学科やクラスの友人関係」や「部やサークルの人間関係」に満足している学生も、それぞれ、13.9㌽、18.0㌽増えた。「今の大学への満足度」も66.7%から75.9%に上昇した。

このように、現代の大学生の授業、人間関係、そして大学への満足度は上昇している。この間の大学改革や各大学の努力は功を奏しているといっていいであろう。

学生の意識も変化し、真面目で、素直で、従順になっている。13年調査では、「大学での授業で出席を厳しく取るべきだ」(45.8%)、「学生の生活や学習について、大学の先生は指導した方がいい」(17.4%)と答える学生が増えた。

これらは、大学生のメンタリティーが「生徒化」しているといえるものであろう。「生徒化」とは、他律的、受け身と言った傾向であり、大人や上からの指示に従順であり素直な傾向である。

背景には、大学生の「安定志向」や今日の就職難への防衛意識などがある。高度成長期や好景気の時のように、楽に就職ができる時代ではない。就職に役立つ資格を一つでも多く取り、将来に備えたいと考えれば、大人の指示に従順にならざるを得ない。

大学教師の意識や教え方も変わった。多くの教師は、半期15回の授業回数をきちんとこなし、学生の出席を毎回チェックし、学生の主体的参加を促すアクティブラーニング(能動的な学習)を取り入れ、学生の成長を見守っている。

こうした変化は学生の回答にも表れている。「先生が授業熱心」と答えた学生は、97年の33.8%から13年の62.4%に倍増し、「少人数・ゼミ形式の授業がある」という答えも54.7%から73.6%に増加した。

一方で、大学は「最高学府」であると同時に、社会に出る前の「最終学府」でもある。したがって、学生が社会に出て恥ずかしくない学力(漢字や分数の計算も含む)を身に付けさせ、社会に送り出す責任が大学にある。社会的マナーの教育も必要である。

その意味では、学生たちの授業への出席率の高さ、真面目さ、従順さ、つまり「生徒化」は好ましいことと言って良い。

しかし、気になる点もある。確かに学生たちは授業に熱心に出席し、教師や大学に満足してはいるが、自主的な勉強や読書の時間が増えたわけではない。13年調査で、「授業の予習・復習をほとんどしない」と答えた学生は52.5%、「読書をほとんどしない」は48,7%に上る。

昔の学生は、作家や評論家、芸術家など大学外の思想家の著作から多くを学んでいた。だが、今の学生にとって勉強イコール大学の授業であり、学ぶのは大学の教師が教えるもののみである。

現代学生は、アルバイト経験は豊富でインターネットでの情報収集にはたけているが、海外留学や旅行、合宿、遊び、学生運動など大学外の様々な経験から学ぶことが減っている。異国への旅に出ず、自分を安全な場所に置いてインターネットで都合のいい情報を集めるだけでは異文化体験はできない。

大学類型ごとの差も気になる。伝統的な総合大学では、教養教育を重んじ、学生の「自分探し」(モラトリアム志向)を支援する余裕があるが、新興大学では、就職実績を上げ、それをアピールしなければ、学生も集まらず、大学の存続が危うくなる。学生の「生徒化」に歩調を合わせるように、大学の「専門学校化」が進んでいる。

資格や採用試験合格など、学生に明確な目標を持たせ、その目標を到達するよう指導することは効果がある。しかしその目標自体が、学生が自ら選び取ったものでなければ、自主性は育たない。

学生が卒業して出て行く社会は、決して受け身で内向的な若者にやさしい社会ではない。若年層の非正規雇用が多いことが示すように、従順な若者を不当に扱い、使い捨てる社会でもある。

学生は、学生生活全般から幅広く学び、厳しい社会を生き抜くたくましさを身に付ける必要がある。それには、専門知識の習得と同時に、幅広い教養や汎用的技能(コミュニケーションスキル、数量的スキル、情報リテラシー、論理的思考力、問題解決力)を学ばなければならない。異世代や異文化の人々と交流し、様々な体験を積み重ねなければならない。

大学の教職員は、学生の「生徒化」がもたらす光と影を見極め、学生に時に手を差し伸べ、時に厳しい試練を課していかなければならない。

(日経新聞、2015年5月11日、原稿)

この原稿のもとになった我々の研究グループ(大学生文化研究会)の報告書 『現代の学生文化と支援に関する実証的研究― 学生の「生徒化」に注目して ―』(科研費・ 研究成果・最終報告書、平成 27 2月)は、下記アドレスに全文掲載している。(郵送料350円を切手で敬愛大学武内宛てでお送りいただければ、報告書冊子(229頁)をお送りすることもできる)

https://www.takeuchikiyoshi.com/wp-content/uploads/2011/12/24531072.pdf

 

教育社会学の魅力

 「教育についての理想や理念は大切だけれども、それだけではだめ、とおもう人には教育社会学はむいています」「いままで学校生活をしてきて、気になる点が多々あり、教育社会学を学ぶことによって、『そういうことだったのか』とふにおちるようになる快感みたいなものが教育社会学の魅力です」「教育や学校は近代社会の骨格をなすものですから、教育の社会学的研究をつうじて近代社会つまりわれわれが生きている社会を相対化してみるという壮大な志もあるのです」(竹内洋「教育社会学」『AREA Mok13,教育学がわかる』1996年) 

 上記は、教育社会学の魅力を的確に表していると思う。しかし、これを、学生に説明するには、具体的な例が必要である。それが意外と難しい。

 私がよく具体例に出すのが、「学校の潜在的カリキュラム」についての説明である。学校には明示されたカリキュラムとは別に、明示されていないけれど、学校で生活することで自然と身についてしまうこと(潜在的カリキュラム)があるということをあげる。

 たとえば、中学校校則で、制服の規定で「意味のない」ものがある。しかし、その「意味のない」校則に従順に従うことは、社会に出てから「不当な」法律に従順に従う心性や態度が形成される。さらに、学校の退屈な授業に堪えることができれば、社会に出てからどんな退屈な単純な仕事にも耐えられる。

「授業は退屈であってもよい。私のこの退屈な授業に堪えられれば、社会の中のどのような仕事に堪えることができますよ」と、付け加える。

 この説明の意図は、事実を述べることにある。教育の理想やあるべき姿を述べているわけではない。これまでの学校生活のことで「そういうことだったのかとふにおちるようになる快感」を味わってほしいと思ってのことである。

 ところが、多くの学生は、そうはとらない。「学校にある無意味な校則は撤廃すべきだ」「学校の授業が退屈でいいわけはない。教師は生徒の興味を引くように努力すべきだ」「先生はこの退屈な授業をすぐやめて、学生のディスカッションなどを取り入れるなど、授業を工夫すべきだ」と。

 教育社会学は「理想や理念は大切だけれども」(こうあるべきだということも大切だけれども)、その前に事実(存在)を明らかにすることに重点を置いている。それが教育社会学の魅力(竹内洋氏の「ふにおちるということ」である)ということがなかなかわかってもらえない。

 学生の常識を揺さぶり授業を面白くしようという努力(内容)が、退屈な授業の言い訳と取られてしまう。あげている例が悪いのであろうか。学生が素直過ぎるのであろうか。