「教育についての理想や理念は大切だけれども、それだけではだめ、とおもう人には教育社会学はむいています」「いままで学校生活をしてきて、気になる点が多々あり、教育社会学を学ぶことによって、『そういうことだったのか』とふにおちるようになる快感みたいなものが教育社会学の魅力です」「教育や学校は近代社会の骨格をなすものですから、教育の社会学的研究をつうじて近代社会つまりわれわれが生きている社会を相対化してみるという壮大な志もあるのです」(竹内洋「教育社会学」『AREA Mok13,教育学がわかる』1996年)
上記は、教育社会学の魅力を的確に表していると思う。しかし、これを、学生に説明するには、具体的な例が必要である。それが意外と難しい。
私がよく具体例に出すのが、「学校の潜在的カリキュラム」についての説明である。学校には明示されたカリキュラムとは別に、明示されていないけれど、学校で生活することで自然と身についてしまうこと(潜在的カリキュラム)があるということをあげる。
たとえば、中学校校則で、制服の規定で「意味のない」ものがある。しかし、その「意味のない」校則に従順に従うことは、社会に出てから「不当な」法律に従順に従う心性や態度が形成される。さらに、学校の退屈な授業に堪えることができれば、社会に出てからどんな退屈な単純な仕事にも耐えられる。
「授業は退屈であってもよい。私のこの退屈な授業に堪えられれば、社会の中のどのような仕事に堪えることができますよ」と、付け加える。
この説明の意図は、事実を述べることにある。教育の理想やあるべき姿を述べているわけではない。これまでの学校生活のことで「そういうことだったのかとふにおちるようになる快感」を味わってほしいと思ってのことである。
ところが、多くの学生は、そうはとらない。「学校にある無意味な校則は撤廃すべきだ」「学校の授業が退屈でいいわけはない。教師は生徒の興味を引くように努力すべきだ」「先生はこの退屈な授業をすぐやめて、学生のディスカッションなどを取り入れるなど、授業を工夫すべきだ」と。
教育社会学は「理想や理念は大切だけれども」(こうあるべきだということも大切だけれども)、その前に事実(存在)を明らかにすることに重点を置いている。それが教育社会学の魅力(竹内洋氏の「ふにおちるということ」である)ということがなかなかわかってもらえない。
学生の常識を揺さぶり授業を面白くしようという努力(内容)が、退屈な授業の言い訳と取られてしまう。あげている例が悪いのであろうか。学生が素直過ぎるのであろうか。