「かって大学生がそれとして判別できる「型」を有していた時代があった。たとえば、男子学生は、詰め襟の学生服を着て、ハードカバーの本を小脇に抱え、電車の中では座らないといったスタイルを共有し、それが大学生としての身分を表す象徴であった。(中略)しかし、今は誰が誰だか判別できない」(大森「東大生になることの意味」『東京大学は変わる』東京大学出版会、2000年、18ページ)
この文章を読んで、大学生はエリートで、大学生としての自負を皆持っていた、あるいは、「大学生としての自負を持ちなさい」と教員が学生に諭すことができた時代があったことを思い出した。
今は同年代の60%近くが大学・短大に進学する時代で、大学生はエリートではないし(それは東大生といえども同じこと)、心情や行動、そして服装も、勤労青年と変わらない。それは、鼻持ちならないエリート意識がなくていいということであるが、同時に「型」も「自負」も「気取り」もない平凡な大衆になってしまったということである。
電車やバスの優先席に座ろうが、授業中に私語をしようが、スマホを弄ろうが、アイドルにうつつを抜かそうが、それは大学生として恥ずべきことではない、と考えている。
大学の教養教育が、このような現代の大学生に対して、何ができるのか、上記の本(『東京大学は変わる』)を読んで少し考えてみたい。