藤原新也のオフ会(不参加記)

藤原新也が、会員制のサイトの会員に呼びかけて忘年会(オフ会)を開いた(12月26日)。よほどそれに申し込み、参加しようと思ったが、思いとどまった。
思いととどまった理由は、いくつかある。
① 最近千葉に籠りきりで、東京(忘年会の場所は大久保)に出て行くのが億劫。
② 藤原シンパの人ばかりとはいえ、30人の見知らぬ人と話すのは億劫。
③ 自分のスタンス(職業他)をどのように打ち出せばいいのか不明。
④ 参加写真が公開されると思うが、それへの覚悟が必要。
以上のことが主な理由だが、それ以外に、次のようなことを思った。

私は藤原新也の書かれたものに惹かれ、ファンの一人であるが、藤原新也と個人的に知り合いになりたいわけではない.また氏の素顔を知りたいわけではない。「藤原新也」を演じている藤原新也を見たいだけである。それには、藤原新也の素顔が多少なりとも出てしまうく忘年会(オフ会)に参加するのは、あまり得策ではない。「藤原新也」が演じられる講演会を聞きに行った方がいいであろう。
 
昔、多田道太郎が、人がアイドル(ヒロイン)に惹かれるのは、アイドルの素顔(実像)ではなく、そのアイドルを通して、自分の理想のイメージ(虚像)を追い求めているである。自分の前に実像が現れたら、「それは違う」と言ってしまう、というようなことを書いていたように記憶する(『管理社会の影」』)。*
これとも少し違うが、要するに素顔を知りたいわけではない。社会的な姿をみたいだけである。知り合いが学会発表や講演をする姿をみたい、というのに近い。

26日に開かれたオフ会の様子を、藤原新也は、参加者の写真入りで報告している(CATWALK、12月27日)。それを見ると、藤原新也に表裏がなく(つまり実像も虚像の落差がなく―それが魅力なのであろう)、参加者は、旧来の友達のように打ち解けていて、私の心配は、杞憂だったようだ。

*「恋愛についていえば、それはオリジナルの向こうに、オリジナルを超えて自分だけの夢を見ることである。(中略)もし、ほんとうのオリジナルである女優が彼の前に現れれば、彼は「それは違う」といわざるをえまい」(多田道太郎『定本管理社会の影』ブリタニカ、1979年、21ページ)

大学の研究室の意味

大学教員にとって、研究室(個室)の存在は、ありがたい。
しかし、大学教員に個室があてがわれるのは当たり前になっているので、その有難味はなかなか感じことができない。その証拠に、研究室の利用率は極めて低い。
定年になり、研究室がなくなって、はじめてその有難みがわかる。

一般に大学の研究室の広さは、せいぜい15〜20平米なのでそんなに広くはないが、本箱を置き、本や資料を置き、インターネットや電話は自由に使えるし、冷暖房費もいらない。誰にも邪魔されず、本が好きなだけ読めて、インターネットが使え、いろいろな作業も出来て、こんな有難い空間はない。
私は、武蔵大学、上智大学と30年間に渡り、高層の景色のよい部屋を宛がわれ快適だったが、家からの距離が遠かったので、授業のある日以外、行くことがあまりなかった。(定年後、その有難味がわかった)
今勤める敬愛大学の研究室(個室)は、家からも近く(車で5分)、高台の6階にあり、展望もよい。廊下から、稲毛の浜と天気がよければ富士山や日の入りが見られる。
この研究室で、今日も数時間過ごしたが、冬休みということもあって、教員をほとんど見かけなかった。多くの教員が東京在住なので、千葉(稲毛)まで、用もないのに来ることはしないのであろう。
大学教員にとって、学生との個別相談や学生に対する個別指導もするので、個室の存在が欠かせない。しかし、それは少し建前かも知れない。
敬愛大学の場合、学生が教師を敬遠して(遠慮して?)、あまり訪ねてこない。その分、研究室にいても誰にも邪魔されず、自分の時間が取れる(武蔵大学にいたときは、ゼミの学生がよく研究室に遊びに来た。私の部屋に置いてあったジャック・ダニエルを飲みに来る学生もいた。上智大学の時は、院生やゼミ生がよくいろいろな相談に来ていたし、また同僚の先生が来て話し込むことも多くあって、研究室はゆっくり本を読んだり思索する場ではなかった)
それにしても、利用率が低い研究室は、とても贅沢な空間だと思う。そのような贅沢さが、大学には必要なのだが。